xharukoの日記

妊娠、出産、育児の中で思った事をつれづれ書きます

学校の機能

「鈴木入間(すずきいるま)14才。
彼はある日突然、悪魔サリバンの孫になった。サリバンは入間をでっろでろに甘やかし、学校にも通わせてくれる事になったのである」

これはEテレで現在第2シリーズが(再)放送中のアニメ「魔入りました!入間くん」の、第1シリーズ冒頭のナレーションです。
第2シリーズが最初に放送されていた2021年春夏頃にはタイミングが合えば観る、程度の興味しか持たなかった我が家の上の子が、何故か突然今回の再放送で「入間くん」にハマったので、第1シリーズのDVDをレンタルして視聴しました。
そのDVDを観ながら上の子が首をかしげます。
「でろでろに甘やかしてるって言っているのに、何で入間くんを学校に行かせるんだろう」

小学生である上の子は、はっきり言えば学校が嫌いです。登校したくなくて泣きながら起床してくる日が月に何日もあり、玄関を出る時まで懸命に涙をぬぐっている場面も少なくありません。宿題はきちんとするし、テストは毎回ほぼ満点ですが、授業は嫌い。日直の日と授業で発表のある日、そして体育のある日も大嫌い。何よりも給食が苦痛でならないそうで、時折ある給食が無い日は目覚めもスムーズで、足取り軽やかに登校します。
給食は、小学生の頃の私がかつて目撃した「配膳された給食を完食するまでは掃除の時間だろうと埃の舞う中で食べさせ続ける」という指導は一切なく、時間が来て、それまで手付かずだった料理も一口さえ挑戦すれば残す事が出来るようになっていると上の子は話します。入学前には文書で、入学してからは担任教師との二者面談でも我が子の食の細さを相談し、残すのは本人も心苦しいからと少なく配膳してもらえるよう依頼しましたが、今は身体を作る時期なので、少ない給食に身体が慣れてしまうといけないからと、少食な児童にも一人前の分量がひとまず配膳され(配膳する当番児童の負担軽減もあるのかも知れません)、アレルゲンの物以外はどの料理も頑張って一口だけは食べるよう指導する事になっているのだそうです。一口でも食べた経験があれば、嫌いな食材や料理も、ある日突然食べられるようになる事もあるから、という事が理由のようです。
ひとかじり食べさえすれば残せると我が子も分かってはいるのですが、それでも完食できないせいか、給食は嫌で嫌で堪らないそうです。だからこそ、我が家の上の子は給食のある日の学校が嫌いなのです。

2022年2月現在、我が家の住んでいる県では新型コロナまん延防止等重点措置の適用により、下の子の幼稚園が感染症対策の為の家庭保育協力期間となっており、下の子が幼稚園に行かない為、ますます上の子は登校が億劫になっています。だからこそ、作中であれだけ入間を可愛がっておきながら入間を学校に行かせる「おじいちゃん」の行動が上の子は分からないと言います。
学校になんか行かせず、可愛い「孫」の入間と毎日一緒に遊んで、昼ごはんも自宅で一緒に食べれば良いのに、と。

「魔入りました!入間くん」の主人公、鈴木入間は、「奔放過ぎる両親に幼児期より振り回された挙句、悪魔に売り飛ばされた」、あるいは「アホな両親のせいで魔界の大悪魔・サリバンの孫になってしまう!」などと、コメディ作品である事でネタの一つとしてさらりと描かれはしていますが、
1才でマグロ漁のエサ役
森で入間が熊に襲われても、近くにいるのに助けてくれない両親など
「圧倒的危機回避能力」を身に付けざるを得なかった生育環境
幼児の頃からお手伝いとしてでは無さそうなレベルで家の掃除をさせられる
学校には殆ど行けず、部活動も経験が無い
夏休みはバイトオンリーで遊びに行くなどもってのほか
作中で14才だと明言されておきながらマグロ漁船で働いている
ろくな食事にありつけなかったので「食べられる時に食べる」痩せの大食い
雑草を食べていた事があった
入間を悪魔に売り、金銭を得る両親
如何なる状況でも絶望しない(絶望を乗り越える心の強さ、絶望からすぐさま立ち直る鋼の精神、ではなく、そもそも絶望する事を「知らない」)
など、日本の普通の子どもではあり得ない環境で育ちました。
だからこそ、我が家の子どもたちが笑いながら観ている横で、入間が清潔でフカフカなベッドから起きて、魔界の家族に可愛がられて、作って貰った料理を好きなだけ食べて、学校で授業を受けて、クラスメイトに名前を呼ばれる作中の日常場面で私は嬉しくて泣いてしまいそうになるのです。
入間の「頼み事を断れない」性格も、断ったら嫌われる、自分を否定されるという恐怖が根底にあるからなのではと思って切なくなります。

さて、子どもを学校に通わせる理由とは何でしょうか。日本では憲法第26条第2項に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う」とあるように、保護者は「子どもに教育を受けさせる義務」が、また学校教育法では保護者は「子どもを就学させる義務」があると定められているので、小学校や中学校は義務教育と言われています。
保護者には元々、子どもへの「教育権」がありますが、保護者の指導能力にもばらつきがあるので、それを補完する為に学校があるのです。信念を持って学校に行かない人や、何らかの理由があって学校に行きたくても行けない状態になってしまっている人など各々に事情はあるかとは思うので、保護者が一定レベルの知識を子どもに習得させる事が出来るのであれば、私は「学校」とは現行の形式に拘らなくても良いのかも知れないと思う時があります。

このコロナ禍において教育の現場は様々な対策を立てる必要性が出てきました。上の子が学校から持ち帰る文書の中には、自宅にWi-Fiがあるかを問うアンケートがあった事も幾度かあります。感染のリスクを最小限に留め、かつ子どもに教育を施す為にリモート学習の準備が進められているのでしょう。我が子の小学校ではコロナ禍以前より児童一人にタブレットPCを校内使用に限り一台貸与していたらしいので、それを家庭に持ち帰ればリモート学習の機材は揃うのかも知れません。
しかし、「学校」には授業を行う、という機能以外もあるように思うのです。

学生時代の経験は貴重だ、とは、様々な場面で語られる事があります。そうは言うものの、思い返せば子ども時代の私も、学校はあまり好きではありませんでした。小学校は中学校に入るまでの準備をする場所で、中学は高校までの、そして高校とは、進学校でもあった為に、大学の予備校でしかないなと考えていたからです。数学の授業の度に、こんな知識を使う仕事に将来就く人になんて自分はならないのだから、覚えるだけ無駄だろうと思っていました。だからこそ、今ある地球の事を覚える地理は得意でした。
今でも腸(はらわた)が煮えくり返りそうな嫌な記憶があるのも学校での事で、私が「理不尽」という感覚を知ったのも学校の中でした。芸能界に興味は無くても、流行のものを知らないと話題についていけないからと、好きでもない歌を覚えるべくCDを買った事もあります。クラスは違えど、この子とは会話の波長が合うな、と私が気を使わないで安心して話が出来ていた女子が、とある国の正式な国名を知っているかと男子から質問された時に正しく答えた事を切っ掛けに何故かからかいの対象になってしまったらしく、ついには不登校になった時には、私の方が質問されて答えていたならば、私がイジメの対象になっていたのだろうかと戦慄しました。その子が可愛い子だったので、男子たちは彼女の気を引きたかっただけだったのかも知れないと今では思いますが、彼女が小学校高学年から中学まで不登校になりながらも、私と一緒の女子高校に入学した時には、住所だけで、どのような子もいっしょくたの学校に振り分けるシステムに疑問を抱きました(私が育った地域では私立の学校は高校しか無く、あっても公立に合格出来なかった子の為の学校、という見られ方だった)。
高校からは同級生の中に年上の人がいる事もありますが、同じ年齢の者だけが集められた空間など、社会には学校くらいしかありません。私は学校という「異様な」空間の中で、どのように無難にやり過ごすかを考えていたような子どもでしたが、それなりに楽しい事もありましたし、もう過ぎ去った事でもあるので、その経験が現在に繋がっているのだと思えばそう悪いものでもなかったかなとは思いますが、もしクラスの殆どが彼女のような子ばかりの学校に行けていたのであれば、彼女も私も、今とは違う性格になっていた可能性もあるのではないかと思う時があります。
自分の子どもが小学校に入学する際の保護者説明会では、子どもが幼稚園の頃の保護者会と雰囲気が異なる事に少々たじろいだ事があります。保育園(2号3号認定)は希望通りの園に入園できるかは自治体への申し込み数次第かも知れませんが、幼稚園(1号認定)は各々で自由に各園に申し込めるので、保護者の考え方が似ている家庭が集まるらしい、と聞いた事があります。ならば公立の小学校には様々な家庭の方が集まるが為に、幼稚園の頃と保護者会の雰囲気が変わるのは順当なのです。

集団には、それぞれ文化が形成されると思います。ある集団に属せば、その集団の一員として見合った考え方になっていくというものです。公立の小学校でも独自のルールがあり、我が家の子どもが通っている学校ではキャラクター物の文具は禁止ですが、子どもの幼稚園の同級生で、学区の為に就学先が分かれた子の小学校では、それが認められているそうです。そのような環境でそれぞれ育った子どもたちが中学校で一緒になった時には、最初は価値観がぶつかり合い、次第に馴染み、またその中学校独自の文化になっていくのだろうと思います。そしてもちろん高校でも同じような事が起こり、「その学校の児童、生徒らしさ」になっていくのだろうと思います。想像でしかありませんが、私立の小学校や中学校は、元々が似通った考え方の家庭の子が集うので、更にその文化は顕著なものになるのではないでしょうか。これをハビトゥス(habitus)と言うようです。
ハビトゥスとは、日常生活の認知、評価、行為を方向付ける性向(dispositions)のシステムを指すそうです。今野緒雪マリア様がみてる」(コバルト文庫)の作中の学園内では名字では呼び合わない、「ごきげんよう」が基本の挨拶である事に当初は馴染めなかった編入生や新入生がいつしかその学校の文化を当然のもの、良いものとして身に付けていくように、「学校」とは、そのハビトゥスを身を持って知る場なのではないかと思うのです。

「学校」とは、価値観を知る場所。様々な価値観の子どもたちが集まり、すり合い、時に反発しては馴染み、人間関係を築く練習を重ねる場所。
我が子の担任教師が言いました。
「この小学校は周辺の小学校よりも児童数が多いので、もし、どうしてもソリが合わない子がいても、クラス編成でどうにでもなる。だからこそ、自分と似たタイプ以外の子とも関わりを持つよう指導しています」と。
我が子が「なぜ学校に行かなければならないのか。勉強なら自宅でも出来るではないか」と言い出した時には、私は「あなたが、発表だとか、あなたが苦手だと思う事に挑戦する場所で、あなたとはタイプの違う子とも話す練習をする場所だから」とでも答えようかと思っています。班活動などを通せば、様々な子とも話のきっかけを掴める事でしょう。社会に出れば、否が応でも価値観の異なる人と関わらなければならない事もあります。だからこそ、それは家庭学習では体験できない、学生時代ならではの経験なのです。
コロナ禍においてリモート授業ばかりになり、「高校5年生になってしまっている大学生」が多くいると聞いた事があります。人間関係にもまれる経験は、若いうちにこそ必要なのかも知れません。
人前での発表も、日直も体育も、苦手な給食を食べる経験も、きっと我が子の成長の糧となるでしょう。だからこそ、子どもが学校に通う事は大事な経験なのです。

話を「魔入りました!入間くん」に戻すと、入間は魔界で暮らすようになってからは、沢山「子どもらしい」経験を重ねています。家族に自分の希望を言うだけで緊張してしまっていた場面もありましたが、魔界の家族からそれを受け入れて貰えた経験は、彼の心を本当の意味で強くしてくれる事でしょう。原作では既にあるのかも知れませんが、いつか彼が友人と意見が衝突した時に、自分の態度を反省して、仲直りする場面もあればと願います。
悪魔が入間を学校に行かせるのは、入間を本当に、その世界の一員として大事に育てたい証なのだと思うのです。

差を無くす

生理の貧困、という言葉を目にするようになりました。
コロナ禍になってから知った言葉である為、新型コロナウイルスの影響で仕事が減り、生活が困窮するようになってしまった女性たちが生理用品の購入を後回しにせざるを得なくなってしまった状況の事を指すのだろうなと私は思い込んでいました。月々の家賃や食品の購入だけで精一杯で、生理用品を買うだけの金銭的な余裕が無い方を支援する取り組みだと。
だとすれば、そうした方々に必要なのは生理用ナプキンそのものだけではなく、食料や生活必需品の配付、あるいは生活保護の申請を勧める事なのではないかと思っていました。
しかし、そうではありませんでした。「生理の貧困」の意味を私は勘違いしていたのです。


どうしてナプキン買えないの?日本で“生理の貧困”が起きる理由。支援者に聞く
https://joshi-spa.jp/1079587?cx_clicks_art_mdl=2_title

 日本の17歳以下の子どもの貧困率は、7人に1人(『2019年 国民生活基礎調査』より)。経済的理由などで生理用品を入手することができない状態、いわゆる「生理の貧困」が問題視されています。また、経済的理由だけでなく、生理をタブー視されることや、十分な性教育が受けられない環境で、生理用品に適切にアクセスができない学生も多くいます。

生理用ナプキンなど、昼用レギュラー30枚程度が入った物が2パックセットで300円もしないでドラッグストア等で販売されています。健常な女性であれば生理は10代から50代あたりまで続く身体の機能の一つなのですから、たとえ一食分を我慢してでも、生理用品は常備しておくべき女性の必需品だと私は思っています。経血の量に個人差はあれど、60枚もあれば1サイクル分を切り抜けられる方が殆どかと思いますが、経済的貧困で月に300円程度の用意が出来ないという方には、生理用ナプキンを配付するのではなく、もっと他に必要なサポートがあるべきなのではないかと思っていました。

この「月に300円程度、何とか出せないのか」、という声に対して「いやいや、他にもこんな出費がある人がいる」と、痛み止めの薬代や大量の経血を吸収できる高額ナプキン等の生理用品を列挙して反論している記事も拝見しましたが、しかし、「生理の貧困」とは、そのようなレベルの問題ではなかったのです。「貧困」という言葉のイメージに引きずられ、「経済的な貧困」だけで終わっていてはならない問題だったのです。
その事を、私は上記の記事に寄せられたコメントで知りました。

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ちょっと検索してみたのですが英語でPeriod Poverty (生理の貧困)
みたいです。日本語訳が良くないのではないかな。
「貧」といっても「貧血」ときいて経済的な面を考える人はいないと思うのですが
「貧困」だと経済的なばかりが強調される。
それだと「ナプキン安いのに」と反発を招いてる気がした。
本当に経済的にどうしても買えない人もいるかもしれないけど
それはどう考えても少数です。

Povertyは経済的に困ってる人だけでなく知識とか、
裕福じゃないまでもナプキン買えないほどではないのに他の物を優先してしまう本人や保護者の意識も含めて諸々「ゆきとどいてない」
って状況の人を助けてあげようってことなのでは。


元の記事の冒頭にも確かにありました。

「経済的理由だけでなく、生理をタブー視されることや、十分な性教育が受けられない環境で、生理用品に適切にアクセスができない学生も多くいます」と。

「生理の貧困」とは、生理に関する対応が足りていない、あらゆる状況を指していたのです。
中には確かに経済的な事情で生理用ナプキン代を節約する為にトイレットペーパーを幾重にも折り畳んでやり過ごしている女性もいるのかも知れません。しかし、保護者が少女に訪れた生理に適切に対応せず、知識を教えず、ナプキンも与えず、結果、少女自身が生理の適切な対応を知らないまま育ってしまい、それゆえに買い物で嗜好品を我慢してでもナプキンは手にすべき物だとの優先順位をつけられない考え方になってしまっている、という状況も「生理の貧困」に含まれているのです。

ならば、私が以前に読んだ下記の記事もまた、「生理の貧困」だったのです。


【前編】旦那の連れ子が使用済み生理用品を放置!どうすれば変わる……?
https://article.yahoo.co.jp/detail/dbae61d41b860e31e59ce3f0f5cba840385b3d8e


上記は投稿者が女性で、夫の連れ子である女子高校生が使用済み生理用ナプキンを人の目につかないように処理しない事に衝撃を受け、ネット上で相談したという内容です。
幼い頃に実母を亡くし、父子家庭になってから生理が訪れたせいで女子高校生は使用済み生理用ナプキンの適切な処理方法等を身につけるタイミングを逸してしまったのだろうと推測されたこの件は、投稿者がその子の育った環境を理解し、少しずつマナーを教えていく決意を固めて終結します。
しかし、この女子高校生の継母のような存在を得られる「生理の知識の貧困」者が稀な事は、想像に難くありません。

上記の記事は、使用後の生理用ナプキンの処理の方法を女子高校生の父親が男性ゆえの無知により適切に教えられなかったせいで起きた「生理の貧困」です。「父子家庭あるある」だと記事内にあったように、男性保護者に、女性の生理とは「使用済みの物を捨てる時にまで配慮するべきもの」だという認識が欠如していただけで、この少女が必要なナプキン数を欠いた事は、これまでおそらく無かったであろうと思われます。この父親は、かつて女性の生理の仕組みを学校の保健体育等で教わっていたのかも知れませんし、後に妻(前妻)となった女性と知り合ってから覚えたのかも知れません。あるいは父子家庭になってから娘に母親がいない不都合を感じさせないようにしっかりと勉強をし、きちんと生理用ナプキンを買い与える、あるいは購入する為のお金を渡していたのだろうと思います。
少女が通った学校の教師らも、少女が父子家庭である事を考慮して保健室などで個別に指導してくれていたのかも知れませんし、少女の祖母や親戚など、年配の女性たちが生理の教育に関わった可能性もあります。なので、少女は経血の直接の対応に困った事は無かったのかも知れません。
しかし、使用済みナプキンの処理を一般的な女性たちがどのように行っているのかまでをこの父親が知る機会がこれまで無かった為に、質問投稿者が継母として女子高校生の前にやってくるまでは普通の家庭ゴミとして扱っていたのでしょう。
当の女子高校生は、学校等の公共のトイレでは使用済み生理用ナプキンをサニタリーボックスに入れる事は知っても、家族しかいない自宅でも特別な捨て方をしなければならないとの認識には至らなかったのだろうと思います。おそらく、父親と二人で思春期の様々な物事を乗り越えてきたからこそ、「使用済み生理用ナプキンを父親に見られるのは恥ずかしい」とはならなかっただけなのです。
吸収した経血を他者に見えないように丸められていない、使用済み生理用ナプキンがサニタリーボックスに無造作に入れられている場面を私は目撃した事があるので、案外そうした「生理の知識の貧困」者は少なくないのかも知れません。

しかし「生理の知識の貧困」家庭も、その貧困の程度は様々にあるのだろうと思います。そもそも生理用ナプキンは女性に必要な物、頻繁に交換すべき物だと認識していない保護者もいるのかも知れません。娘が女性になっていく事実に目を背ける保護者の元では、少女たちは思うように適切な下着や生理用ナプキンを入手する事は困難でしょう。
かつて、震災時の避難所で生理用ナプキンを配付しようとした際に「不謹慎だ」と怒った中年男性がいたらしい事、女性アイドルのネット配信時に誤って自室が映り、生理用ナプキンの袋を視聴者に目撃され「生理がある=非処女」だと勘違いした男性ファンがインターネット掲示板などでおかしな書き込みをした事、女性声優が同じくネット配信時に私物スマートフォンの画面を映した際に「ルナルナ」という、生理予定日および排卵日を予測してくれるアプリが入っている事を見つけた男性ファンがインターネット上で【悲報】と表現した事など、「生理の知識の貧困」が原因で起きた騒動を私はいくつか記憶しています。彼らがたまたま「生理の知識の貧困」者だったとしても、女性並みに生理に詳しい男性は少数派だろうという事は容易に想像できます。なにより、当の女性たち同士にも知識に差があるのですから、それも当然です。私は日中に、昼用レギュラーでは経血が溢れてしまう女性がいる事を少し前まで知りませんでした。

初潮を迎えると赤飯でお祝いする一方で、何かと煩わされる生理は、もしかしたら女性以上に男性は面倒くささを感じているのかも知れません。いざ性交渉を持ちかけても生理を理由に断られる。女性が不愉快な態度をとってきても生理による体調不良やホルモンバランスの乱れのせいなのだと理解し、許してやらなければならない。怪我でも病気でもないのに出血する気味悪さ、そして臭い。男性は能動的に「出そう」と思わなければ排泄物は出ないのに、経血はいつも垂れ流しなのかと思った時の嫌悪感。女性が頻繁にトイレに行く事で自分のペースを乱される事。使い捨てにされる生理用ナプキン代の勿体なさ。そして、愛らしかった娘が初潮を迎えた事で、娘もまた「オンナ」なのだと見せつけられる不愉快さ。
「不浄」「穢れ」だと恥じて隠してきたのは女性たちなのか、気持ち悪いと見ないように避けてきたのは男性なのか。
これまではきっと、少女が困っていれば年長の女性たちが助けてきていたのでしょう。ナチスドイツが行ったユダヤ人の強制収容所でも、施設で初潮を迎える前の少女に他の女性たちが対応の仕方を教えていたらしいとの記事がありました。

ホロコーストにおける月経を乗り越える女性の物語
https://voi.id/ja/memory/1624/read

若い女の子は、女性が月経や月経を持っていないか、月経を経験する前に、それを処理する方法と月経血流に対処するために何をする必要があるかを教えられました。


強制収容所という非人道的な場所にあっても、年長の女性たちは少女の成長をサポートしていたというのです。
ひるがえって私の周囲を考えると、地域の繋がりは薄れ、アパートの隣の住人の勤務先を知らなかったり、近所の子どもの名前も知らなかったりしています。そのような希薄な人間関係において、近所のおばさんだからといって、少女がプライベートな事で困っていないか踏み込む事は容易ではありません。たとえ自分にとって姪になる女の子に対してすら、保護者が他に誰かしらいる中で生理の心配をしたならば、気味悪るがられるでしょう。
「子ども、二人目は考えてるの?」
という質問すら女性が女性にしてもプライベートな事だと嫌がられる現代で、
「生理、始まった?」
だなんて、訊ける訳がありません。

生理は「隠されるべきもの」とされてきました。しかし小学生や中学生男子にとっては、隠されてしまうからこそ気になってしまうのかも知れません。自分たちが楽しく外で遊んでいる間に女子たちだけが教師に集められ特別な授業を受けたとなれば、尚の事です。母親や姉がこそこそするような何かを、同級生の女子もするようになったらしい。しかも「それ」は、どうやら性に関する事、つまりエロい事らしい。そうした中途半端な知識のせいで生理をからかう男子が出てきても、おかしくはありません。
幸い私の周囲では起こりませんでしたが、かつて少女だった頃の私が読んだ、とある少女雑誌の漫画の中に
「これ、なーにーー?」
と、誰かの生理用ナプキンを皆の前で男子たちが暴露する場面がありました。晒された女の子は泣き出し、女性主人公は
「それは女の子にとって、大事な物なの!」
と怒って取り返そうとするのです。
私はどうしてもその場面をふとした拍子に思い出してしまう為、数年前、リニューアルの為に一旦閉店するという雑貨屋さんで、折り畳めばタオルハンカチにしか見えなくなるポーチが安くなっていたので、購入しようとしました。

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「娘に生理が始まった時に、きっと役に立つよ!」
と言いながら私が柄を選別していると
「それ、あと何年後?」
と、同行していた夫に冷ややかに突っ込まれました。そう、この時、娘はまだ幼稚園児だったのです。
「あと5年もしたら始まるよ!」
そう言い返すと
「5年も先なら、その時にもっと良い物が見つかるよ」
と夫に言われ、それもそうかと納得し、買わずに去りました。が、実は今でも「生理用ナプキンを娘がトイレに持って行く時に男子に見つけられないように、いつか絶対に役に立つ。いつか必ず買うならば、やっぱり閉店セールで安くなっていたあの時に買っておけば良かったなぁ」と後悔しています。移動ポケット(ポケットポシェットとも言う)は私服の小学生の時には良くても、制服の中学生になった時には悪目立ち過ぎるので、やはりハンカチにしか見えないポーチは必要だと思うのです。
余談ですが、「いま幼稚園児の娘にも、あと5年で生理が来る」と知った夫は少しショックを受けていました。

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私自身は生理が軽い方らしく、しかもトイレに入ったタイミングで経血が出る事が殆どだったので、実は学生時代に生理用ナプキンを学校で交換した事は殆どありませんでした。登校前に制服のスカートのポケットにひとつ入れておけば、それで足りていたのです。それ故に生理用ナプキンをトイレに持ち込む時に私はポーチを必要とはしていませんでしたが、やはりそのようにしていた女子はおり、突然ポーチを持ちながらトイレに行くようになった女子たちを、男子はどう思っていたのかは少し気になりました。
タオルハンカチにしか見えないポーチが当時からあれば、男子たちの前でも「これはハンカチです」という顔をして堂々と持ち出せたので、そんな杞憂も無かった事でしょう。もしかしたら一部の男子はリップクリーム等の化粧道具が入っているとしか思っていなかったかも知れませんが。

いま各地の学校で、生理用ナプキンが配布されるようになったというネット記事を見るようになりました。もし学校の女子トイレの中に、トイレットペーパーと同じような扱いで生理用ナプキンが常時置いてあるようになれば、私が将来の娘に買おうとしていた、タオルハンカチにしか見えないポーチは不要になります。
今まで買わざるを得なかった品物が無料で自由に使えるとなると、生理用ナプキンの入手に苦労した事のない少女の中には、家計やお小遣いを浮かそうと、必要以上に持ち帰ろうとする子も出てくるかも知れません。しかし、ナプキンが個包装の状態で置かれたならば物が物だけに転売も難しそうですし、用途も限られてしまうので、そうした事案があったとしても、いつでも女子トイレの中に生理用ナプキンが置いてあるようになるならば、いずれは不必要な持ち出しの話も聞かなくなるでしょう。個室内の予備のトイレットペーパーが盗難に遭う回数よりは、ずっと少なくなる筈です。

「買うのがもったいないから、くらいの気持ちでも大丈夫。友達と『ノリ』で来て、得したと思ってもらえたら」

生理用ナプキンに少女たちが気軽にアクセス出来るよう、そこまで言って下さる児童館の館長さんの記事も拝見しました。そう、友だちとノリで来て、あそこでならタダで手に入ると有名になれば、本当に必要としている少女の元にもいつかは届くようになるでしょう。
生理用品の話題が友人同士で気軽に出来るようになれば、自分が軽い方なのか、重い方なのかも分かるようになり、「保健室の先生へ相談してみようか」となるかも知れません。そうすれば、いずれ不妊だと判明して高度な治療が必要とされる前に、早い段階から何らかの行動を起こせる可能性だって出て来るでしょう。生理用ナプキンを娘に買い与える事を怠るような保護者の元では少女の婦人科への受診は難しいかも知れませんが、学校からの通知があれば、多少は受診を促す効果があるかも知れません。

生理が「友人同士の話題に普通に上るもの」となれば、自分や自分の家庭の常識が一般的な物なのか、そうではないのかも少女たちは気付くようになるでしょう。「生理の貧困」で恐ろしいのは、自分の家庭の生理の知識が世の中の常識だと思ってしまい、本来されるべき対処が自分には成されていないと少女自身が知らない事かと思います。
「生理」は少女から閉経になるまでの年齢の女性に当たり前にある生理現象です。したがって、保護者が少女の成長に適切に対応しないなど、あってはなりません。自分で自由に使えるお金が限られる学生の間は、学校などで少女が生理用品に適切にアクセス出来るようにする事に私は賛成です。
商業施設でスマートフォンのアプリ画面をかざすとトイレに設置されているディスペンサーから生理用ナプキンが出てくるようになる、という記事も拝見しました。ディスペンサーの液晶パネルに広告が表示されるので、その広告収入でナプキン代を賄うのだそうです。便利そうではありますし、ナプキンの盗難、いたずら予防にもなりそうですが、しかし、これは「生理の貧困」対策ではなく、単に新しい広告の打ち出し方の登場なだけに思えます。
高速道路サービスエリア等の女子トイレの手洗い場付近には、生理用ナプキンの自動販売機が設置されている事があります。そのような機械に液晶パネルを付けて情報を流し、ボタンを押せば無料で生理用ナプキンが出てくる仕組みが学校の女子トイレにあったら良いなと思います。流すべき情報は、経血が多い人は夜用と書かれている製品を試そう、保健室で貰えるよ、だとか、ナプキンの捨て方の説明、生理の仕組み、不定期な人は保健室の先生にまず相談しよう、性交渉の強要はDVである、など様々にあると思います。調べれば簡単に辿り着く情報入手ツールを持っていても、興味が向かなければ調べようという行動には移りません。生理用ナプキンが欲しくてボタンを押す度に、少女たちに必要な情報が様々に紹介されればと思います。

若い世代が「生理の貧困」にならないように努める事は、年上の者の責務だと思います。我が家では「性がエロになる前に」をモットーに、幼稚園児の息子(そもそも、まだ普通に私が使用中のトイレに入ってくる)と小学校低学年の娘には、生理中の女性のトイレの後の便器の中がどうなるのかも見せた事があります。また、実際にどのようにナプキンを交換するのかも、この際にと見せた事があります。おかげで、就寝前は仰向けになった私のお腹の上でうつぶせ寝をしたがっていた息子は
「母さん、いま血ぃ出てない?」
と確認するようになり
「出てるよ」と私が答えると、お腹の上には上がらなくなり、添い寝をしながら私のおへその辺りをなでてくれるようになりました。
生理中でなければ「今は出てない期間だよ」と答えているので、息子は母親の股間から出血があるのは毎日では無く、しかし始まると数日は続くと身をもって体験しているところです。私が使用した後のトイレに息子を招き入れるだなんて息子が小学生になってからでは出来ない事なので、「性」を「エロ」だと感じる前の、就学前こそが正に教え時だと思います。
このように自分の子どもには様々な事を教えられますが、他の家庭の子どもにはこうした事はなかなか教える事は出来ません。もし保護者の対応不足で「生理の貧困」、そこから「性の知識の貧困」になってしまっている少女がいるのであれば、社会全体でその「行き届かなさ」をカバーしていける仕組みが必要だと思います。

子どもの首に私の髪がからまった話

「そもそも有り得ない。」

「私も嘘くさいな〜と思いました。」

「髪が意志を持って巻き付いたとしか考えられないのですが・・・
どのようにそんなにきつく巻きついたのか、想像力を試される記事ですね。」

「私も髪が動いたとしか思えない。私も長いけど何かに巻きつくことはないでしょ、ウトウトしている間に旦那さんにされたのでは?」

「意味がわからない...」

「ええ… ありえますかね?? どんな髪質…」

「申し訳ない!これは無理がある。釣り記事ですね〜」

ざっと拾っただけですが、多くの方がこの事故の状況が分からず困惑しているようでした。上記のコメントが寄せられたのは下記の記事に対してです。


【うっかりおうちで死にかけた】息子の首に髪が絡まり、その場で自分のロングヘアーを切り落としてもらった……というお話
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/spv/2007/22/news147.html

 息子が生後11カ月のときのことです。息子は髪の毛が好きで、私の髪を持ちながら寝付くようになりました。私はロングヘアーが好きで、当時は胸下15センチくらいの長さでした。

 いつものように髪を引っ張られながら息子を寝かしつけ、「あ、寝たなー」と思って動こうとしたら、息子の首に髪が巻き付いていました……。息子は顔を真っ赤にしながらせきをしていて、私は慌てて夫に「ハサミ持ってきて!」。そのまま髪をバサッと切り落としてもらいました。

 息子はすぐ眠りにつきましたが、翌日、首を見たら髪で締められたアザができていました。

コメントを書き込んだ多くの方が創作、あるいは故意だと感じたこの事故ですが、実は私にも同じ経験があります。
我が家の上の子は3才あたりになるまで私の髪の毛を自分の指にからめる事が大好きで、指しゃぶりをしている時には、からめた私の髪ごとしゃぶっているような子でした。第二子の時には添い乳(寝転がっている赤ちゃんに母乳を与えながら一緒に横になる事)が出来るようになった私ですが、第一子授乳期の時の私は母乳が出なかったせいもあり、実母などからはよく、私の髪の毛からこの子は何らかの成分を吸収しているに違いない、などとからかわれていたものです。
我が子は、寝ている時にも無意識に私の髪の毛を触りに手を伸ばしていました。
出産したら母親は個人的な外出なんて出来ないのだからと妊娠後期にショートボブ(後頭部でぎりぎり一本結いが出来る)の長さに切っておいていた私の髪は、伸びるのが早いのか、第一子が1才になる頃には既に胸が隠れる程度までの長さになっていました。

その日も私の髪の毛を掴んで寝たい子どもの為に私は髪を結うことなく、子どもの添い寝をしていました。子どもは既に五時間程度はまとめて寝てくれるようになっていたので、新生児の頃のように二時間おきの目覚ましアラームのセットが必要になる事もなく、夜泣きも殆どしない子だったので、私も子どもが自分で起きるタイミングまではゆっくりと眠る事が出来ていました。
1才になる頃の我が子は私の髪の毛を自分の人差し指に絡ませ、その手の親指を指しゃぶりしながら寝入り、寝返りをうち、また寝返りをうち、寝返りをうち、

「うあーーーん」

子どもの泣き声と頭皮が引っ張られる感覚で私は目を覚ましました。
私の髪の毛は普段から子どもに引っ張られ慣れていましたが、その時にはいつも以上に強く引っ張られており、異常を察知して私が起き上がろうとしたら、子どもの頭も一緒に動く。
隣で眠る夫は、私の「電気つけて!」の声にすぐさま飛び起きてくれ、明るくなった寝室で私たちが目にしたのは

私の髪の毛で首をしめられている我が子の姿でした。

動けない私に代わってハサミを持ってきてくれた夫からそれを受け取ると、私はまずは私と子どもを繋いでいる部分の私の髪の毛を切り、それから子どもの手首と首の隙間を狙い、巻き付いている私の髪の毛にハサミを入れました。
子どもの首と、絞めていた私の髪の毛との間に子ども自身の手首が入っていたので、髪の毛は難なくほどく事が出来ました。
子どもは私に抱っこされているうちに落ち着き、また別の私の髪の一房をつかんで眠りにつきました。心臓がバクバクしたままの私は、そのまま子どもの隣で横になりながら朝まで起きて過ごしました。幸い子どもの首には痣が残る事もなかったので、病院の受診はしませんでした。


上記の記事の内容にインターネット上では陰謀論が繰り広げられていましたが、本当に、故意ではないのにそうした事故は発生するのだと私は訴えたくてサイトのアドレスを残していましたが、これだけ多くの人に信じて貰えない事故なのだからと、どうにかイラストで解説をしようとして、しかし画力も無いので上手く描けず、その時間もとれずに私のスマホのメモ帳の中にすっかり埋もれてしまいそうになっていた記事でした。

今回、分かりにくい文章であるにもかかわらず投稿しようと思ったのは、同じような事故が発生した時に、虐待だと疑われたという方の記事を読んだ為でした。


堺市、児相の対応を「検証」へ 髪が首に巻き付く”事故”で…保護された2歳息子”5カ月面会できず”
https://news.yahoo.co.jp/articles/2abe37af3174a87962e6265f309bf03c360b1181

堺市に住む2歳の男の子は、首にケガをした痕があったことから、堺市児童相談所が保護を続け親子の面会が5カ月近く認められませんでした。
両親は就寝中に母親の髪の毛が巻きつく事故だったと説明し続け、捜査機関も「事件性の可能性が極めて低い」と判断しましたが、男の子が自宅に戻るまでには1年がかかりました。

そして案の定、この記事に対してのコメントにも「事故だなんて信じられない」といったものが投稿されていました。

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腰まであるけど
絡んだことないし

絡んだって人もきかないし
ニュースもみないなあ??

児相にいる間は児童手当みらえないのを怒ってるんでは???
(原文まま)


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この長さでは意識的にやらない限りは子供の首には巻き付かないですよね。もし巻き付いたとしたら、母親の髪の根元のほうまで持っていかれないと無理じゃないですか?


今あらかた文章をまとめてから再度事件を報じる記事のコメントを見返してみた所、だいぶコメントの数も増え、
「ヘアターニケット症候群で首に巻き付いてまったく同じ痣が首にできてる事例報告上がってるよ」
といった冷静なコメントもつくようになっていましたが、やはり現場を見ていなければ到底信じて貰えない事故だという事を痛感しました。

堺市でその事故が起きた時のお子さんの年齢は2才との事。特定の大人との愛着が必要な年齢の時に虐待だと疑われ、一年も引き離されてしまっただなんて、今後のこの親子関係は大丈夫なのだろうかと心配してしまいます。
しかし、自分で上手に説明できる年齢でもない子どもの首に絞められたような痣があったのですから、児童相談所の判断も妥当なのだろうなとも思うのです。
実際に、本当に我が子を虐待していながら児童相談所に保護された子どもを返せ返せと涙ながらに訴える親もいるのだろうと思うので、男の子を親元に戻す為には慎重な判断が必要だったのでしょう。今回はそれが裏目に出てしまっただけで、その慎重さで救われた子どもも少なくないと思います。

幸い、我が家では同じ事故は再発していませんが、もしあの時に自分たちが堺市のご夫婦と同じ状況になっていたらと思うと、嫌な動悸がしてしまいます。
事故の記事には、
「髪の毛数本でも引っ張られたら痛いですよね」
というコメントもついていました。私も、数本が引っ張られたのならば痛みの方が先に感じます。しかし、数十本はあろうかという一房を引っ張られた時には、あまり痛くはないのです。しかも普段から引っ張られ慣れていたならば、それが余程の力でなければ「この子ったら、まーた掴んでるな」としか思えないのです。

虐待の早期発見、迅速な対応は必要です。だからこそ、子育てには虐待だと疑われないよう、あらゆる安全対策も必要なのです。また、逆にそのせいで子どもを早く泣き止ませなければと強迫観念にとらわれ苦しんでいる方がいるのも事実です。

下記の記事に気になる一文がありました。

「おやすみなさい」と答えた子が3時間後、洗濯機の中で窒息死…同じ事故が起こり続けたのはなぜか?
https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20210203-OYTET50005/

わが国では、13~14年に、ドラム式洗濯機に閉じ込められたとみられる死亡事故が3件起き、2~5歳の子どもが亡くなっていましたが、捜査関係者は「一般的に家庭内の事故は公表しない」とし、表ざたにはなりませんでした(「『小さないのち』を守る」朝日新聞取材班著・朝日新聞出版)。公開されないため事故は起こっていないことになり、何も対策は行われません。

この【ヨミドクター】(https://yomidr.yomiuri.co.jp/)というサイトでは様々な子どもの事故も紹介していますが、そもそも知ろうとしなければ、膨大な情報が溢れるインターネット上では、その情報にはたどり着けません。家庭内の事故はニュースで報道されないという決まりがあるのであれば、どのような事故が起きていても、知らない人は、体験しなければずっと知らないままなのです。
「こんな事故はニュースで聞いた事がない」というのであれば、Eテレ「すくすく子育て」あたりで稀有な事故の例も紹介して欲しいと思います。あり得ないと笑っていられれれば、それで良いのですから。
事故は思いがけない事で発生します。だからこそどうか、故意だと決めつけず、しっかりとした検証もして頂ければと切に願います。

心の中にいつも貴方がいる

私が映画を観て感動し、涙した事はこれまでにも幾度もありました。
しかし、こんな風に喉の奥から無意識に声が漏れ、泣いてしまった経験はそう多くはありません。
しかも、まさかそれが「仮面ライダー」の映画で起こるだなんて。

そのとき私が観た映画とは「平成仮面ライダー20作記念 仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER」です。
冒頭の、時計の針が動く音と共に写真の画像が次々変わり、最初は赤ちゃんだった子どもが写真が変わる度に少しずつ成長していく様子に私はまず涙腺がゆるみました。男の子が育つ度に一緒に写っている「仮面ライダー」のシリーズが替わる様に、ああ、この子の成長の傍らにはいつも仮面ライダーがいて、この男の子は仮面ライダーに見守られて育ったのだろうなと思うと、それだけで涙ぐんでしまいました(まだ映画が始まって数秒)。
この映画に登場する多くの人々にとって、「仮面ライダー」とは私たちと同じように、テレビの中の作品、という位置付けでした。しかし作中、怪人たちが街に現れた時に追い詰められた男の子たちは口々に思い出の仮面ライダーの名前を叫びます。子どもが迷子になった時に「お父さん、お母さん」と泣くのと同じレベルで、恐ろしい場面に直面した際に、救いを求めて思わず自分の心の中のヒーローの名を口にしたのでしょう。
きっと、こんな風に怪人が現れない平時でも、この子たちの心にはいつも、いずれかのシリーズの仮面ライダーがいて、叱咤激励してくれていたのだろう。この子は小学校低学年くらいかな。この子は「仮面ライダーエグゼイド」を観て育ったからこそ「エグゼイド」を呼んだのだろうな。「エグゼイド」は「ジオウ」「ビルド」の前だから二年前、小学校にあがる頃とかかな。子どもは新しいものに夢中になる事が多いのに、この子が呼んだのが前作の「ビルド」ではないという事は、この子はもう「仮面ライダー」は「エグゼイド」で卒業してしまっていたのかな。でも、今でも君のヒーローなんだね、「エグゼイド」が。そう思っただけで私は涙ぐんでしまいました。
(「ビルド」は今作で主要登場人物なので、そもそもこの場面では一般人を助けに駆けつける事が出来ない、というストーリー上の理由は横においておきます)

「えー、何で母さん泣いてるの?」
一緒にDVDで「仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER」を観ていた子どもたちに不思議そうに言われても、子どもたちの心の中のヒーローが実体化して子どもたちの窮地を助けてくれるだなんて、それだけヒーローは子どもたちにとって「本物」なのだと思うと、
いま夢中になって「聖剣ソードライバー」を振るっている君が大きくなってからも「仮面ライダーセイバー」が君の心の中で輝くのかなと思ったら、それだけで君の母は胸がいっぱいになってしまったのです。

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実は私はここ数年で、他にも子ども向け映画で泣いた事があります。
我が家の子どもは上の子が女の子なので「プリキュア」も私は子どもと一緒に楽しみ、「映画HUGっと!プリキュア ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ」が私の、娘と一緒での映画館デビューでした。この時にも私は感涙したのですが、その理由とは「世界には紛争等で大変な地域も未だあるというのに、日本では女児向けのアニメ映画を沢山の人たちが本気になって作ってくれている。しかも『プリキュア』はこんなに何作品も続いているんだ。こんな大画面で子どもと一緒にアニメ映画を楽しめるだなんて、なんて自分は恵まれているのだろう。そして世の中はなんて不公平なのだろう」というものでした。
視聴者が好きな歴代プリキュアの名前を叫ぶ演出は「仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER」の場面と通じるものがあるのですが、この時にはまだ、前述の事柄で私の胸はいっぱいになってしまいました。

その次に娘と劇場で観て私が泣いたものは「映画スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて」で、こちらを観た時の私の涙の理由は、子どもの健やかな成長を願うプリキュアたちの(ひいては制作陣の子どもたちへの)祈りの優しさと、こんなにも美しい惑星で自分は生きているのだな、という事実に圧倒されたからでした。隣の席に座る娘に「ほら、これが貴女の生きる世界なんだよ。こんな星で私たちは生きているんだね」と心の中で訴え、地球の壮大さと、この素晴らしい映像を劇場の大画面で娘と一緒に観られた事が嬉しくて泣きました。

この段階を経ていたので「仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER」を、私はようやく作品そのものの部分で楽しめるようになったのかも知れません。
仮面ライダーを愛してくれたあなたへ」
DVDの映像特典にあったこの予告を思い出すだけで、「あなた」の数の多さに何度でも胸が熱くなります。

平成仮面ライダーは20作品。どれだけの大人たちが制作に関わり、どれだけの人々、特に子どもたちが作品に魅了され、どれだけの親御さん方が毎年次々とある新作の発表に辟易しながらも、「仮面ライダー」を楽しむ子どもを慈しんできたのだろうか。
仮面ライダークウガ」に夢中になっていた男の子も、もう父親の年齢。こんなにも長く愛されてきたシリーズなのだなと思うと、私はその熱量に圧倒されてしまいました。


ちょうど、人が大人になると涙もろくなる理由を説明した記事をタイミングよく読んだところでした。

「めっちゃわかる…」大人になると涙もろくなる理由を説明したパワポの納得感がすごい
https://www.buzzfeed.com/jp/rihotakatsuto/toyomane-kyokan


子どもの頃には、まだ共感の手札が少ない為に物事に対しての感動が少ない。
しかし大人になると共感の手札がありすぎて、子どもたちには理解できないポイントで大人は共感し、感動してしまうのだそうです。

子ども二人を連れた父親が一瞬子どもの姿に戻り「仮面ライダークウガ」の名前を叫ぶ場面は、ああ、かつて「クウガ(20年前の作品)」に夢中になっていた男の子は、こんな立派な男性になったんだ。この男性の心には今でもヒーローと言ったら「クウガ」が輝いているんだ。
この男性も子どもの頃に仮面ライダーのお面をつけて、一生懸命にヒーローになりきって遊んだのだろうな。今まさに私の息子がそうしているのと同じように。
どんな気持ちでこの男性の親御さんは息子さんに仮面ライダーの玩具を買い与えたのかな。お面も意外に高額なのよね。お祭りなんかの出店で買ったのかな。家の中でなりきり遊びをされて、結構大変だったのではないかしら。
そんな幼稚園児の息子も、あと20年くらいでこんな風に大人になるのだな。ああ、息子はどんな大人になるのだろう。
男性が一瞬子どもになり「クウガーーー!」と叫んだ場面だけで、こんな事を考えてしまいました。

作品の重大なネタバレになってしまうので私の号泣ポイントは明かせませんが、子どもが二人いる自分にとって、映画冒頭の何枚もの写真には親御さんのどれだけの想いがこもっていたのだろうかと思った瞬間、二回目の写真の表現で嗚咽がこらえられなくなりました。
写真の男の子が成長していく度に「仮面ライダー」のシリーズが変わり、人形や変身ベルトを買い与え、更にはショーにまで連れて行った、その親御さんの愛情に、同じく「仮面ライダー」好きの息子がいる私は圧倒されました。
玩具についてはきっと、誕生日まで待ちなさい、クリスマスまで待ちなさい、なんて子どもに我慢させる会話もあった事だろう。プレゼントはお互いに何を買うか、夫の両親や自分の両親と事前に打ち合わせもしたのだろうか。次々発売される追加アイテムに財布が悲鳴をあげたかも知れないし、一年毎にシリーズが変わる事に「また買い直しかい!」と恨んだ事もあったかも知れない。変身ベルトは発売日には行列が出来る程、という話も聞いた事がある。手に入れるのが大変だった時もあっただろう。子どもをヒーローショーに連れて行く為に仕事などのスケジュールを調整するのは手間だっただろう。でも日程が近づく度に、もしかしたら子どもよりもワクワクしたかも知れないな。ショーの写真があるという事は、カメラも準備万端で行ったのだろう。子どもの、この笑顔を見る為に親は頑張れるんだよね。あなたが撮影したこの写真、ほんと、良い写真だよ。私もこんな写真を残したいな。
そして、この写真を撮った時には、今度は親御さんは何の憂いも無しに、「仮面ライダー」に夢中になる息子との生活を心から楽しんで撮ったのだろうなと思うと、私は安堵の涙がなかなか止まりませんでした。


しかし、こんなに夢中になっているにもかかわらず、息子にもいつかは「仮面ライダー」を卒業する時が来るのかも知れません。上の子(娘)が今作の「ヒーリングっど プリキュア」の放送時間だと私が知らせてもテレビの前に来なくなり、録画をしておいても「NEW」の印(録画を観たら消える)が翌週になっても消えなくなってしまったように(いま最終回目前なのに!)。
アニメも特撮も、多くの子どもは次第に他の事に興味が移り、いつかは卒業してしまうのかも知れません。かつては私がそうであったように。特に「アンパンマン」が顕著なように、コンテンツとは卒業していく人もいれば、これから入学してくる人、再度編入してくる人とが入り乱れて続いていくものなのだろうと思います。「映画おかあさんといっしょ すりかえかめんをつかまえろ!」でも、忘れられていく寂しさはあるけれど、それは成長の証なのだから喜ぶべき、という場面がありました。
私の小学生の娘が「プリキュア」を卒業しかけているように、息子も「仮面ライダー」や「スーパー戦隊」を卒業する時が、そう遠くはない未来にやって来るのかも知れません。
それでも、かつて子どもだった人々の心に今でもヒーローが輝いているように、子どもたちには、かつて憧れたキャラクターの事を、少しでも良いから覚えていて欲しいと私は願います。

子どもたちが何歳になっても、その心の中にヒーローが輝くであろう事を期待しているのは、実は私の心の中にも、困難に直面した時に、子どもの頃に読んだ、とある漫画の一場面が今でもよぎるからです。
子どもたちには私と同じように、「あのキャラクターだったら、どう行動するか」「あのキャラクターに見られても恥ずかしくない自分でありたい」が行動の基準になる事を私は期待しているのです。
その為であるならば、次々と発売される「ワンダーライドブック(「仮面ライダーセイバー」のアイテム)」を購入する行為にも意義はある。
いつか我が子が家の片付けをした時に「聖剣ソードライバー」や幾つもの「ワンダーライドブック」、これ以降に私たちが贈るであろう玩具を見つけて、子どもの頃の気持ちを思い出してくれるのならば。

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以前、私は子ども番組は出来るだけ長く続いて欲しい、という主張を記した事があります。「仮面ライダー」や「スーパー戦隊」、「プリキュア」は、シリーズ自体は長く続いていますが、ほぼ一年で物語が完結し、毎年新作が発表されます。作品が終盤になる頃には「どうせ、もうすぐ次のシリーズが始まるのだから」と、私は子どもに玩具を我慢させる時があります。新シリーズが始まれば、また次々と新しい玩具が発売される。玩具が欲しいと子どもにねだられ、購入を検討するか我慢させるかのやりとりを、また今年もしなければならないのか、と思うと辟易してしまっていたのですが、「仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER」を観て考えが改まりました。
仮面ライダー」や「スーパー戦隊」、「プリキュア」は、毎年新シリーズが始まるからこそ、その折々の玩具を子どもに買い与える必要が確とあったのです。それは映画の冒頭の写真の通り。
この時に手にしている玩具は「○○」の物だから、放送年は○○。だからこれはこの子が○才の時の写真だと、玩具のおかげで一目でわかるのです。
それはあたかも「映画スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて」の「道しるべ」の如く。シリーズが変わる毎の折々の玩具は、親には子育ての一里塚として、子どもには、君の原点はここだと知らしめるように輝くのです。

お弁当箱等、園グッズのお下がりが出来るか出来ないかを気にするからこそ同じシリーズが長く続く事を望んでいた私ですが、映画等で過去作品のヒーローもどんどん登場してくれるのならば、「これは○年も前に終わった作品だろう」などと、からかわれる心配も無くなるというものです。むしろ過去作品の品物ほど手に入れる事は容易ではなくなるので、ともすれば同級生から尊敬の眼差しを向けられるようにもなるかも知れません。
先日、我が子を予防接種に連れて行った際に「仮面ライダーオーズ」(2010年7月~2011年9月の作品)のトレーナーを着ている男の子と出会いました。これから注射だと憂鬱な気持ちだった私の息子は「オーズだーー!」と喜び、それを着ていた、息子よりも3才くらいは年上であろう男の子は少し照れながらも得意気な顔で柄を見せてくれました。男の子のママさんは「お下がりで貰ったから、何のキャラかも分からなかった」と、古い服だからと少し恥ずかしそうにおっしゃっていましたが、盛り上がる男児二人の様子に楽しそうな目を向けていました。
仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER」に登場した「仮面ライダーオーズ」がメダルをそっと確認した場面が脳裏によぎった私は、「名作ですよ!」とママさんに言いたい気持ちを必死でこらえ「ウチの子、歴代仮面ライダーも覚えてしまいまして」とだけ言うにとどめておきました(むしろ私の方が設定を読み込んでいる分、息子より詳しい)。
そして過去作品の登場人物の事にまで、ふとした仕草で触れてくれるだなんて、改めて「仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER」は平成仮面ライダー愛にあふれている映画だと、予告を思い出して再度心がふるえました。
プリキュア」は今年の春の映画「映画ヒーリングっどプリキュア ゆめのまちでキュン!っとGoGo!大変身!!」で「Yes!プリキュア5GoGo!」(2008年の作品)が共演するとの事。放送当時に楽しんだ方々にも、それを楽しむ子どもたちを見守った方々にも、きっと思い出深い映画となる事でしょう。
誰かの心を照らす灯りとして、これからも、どんどんレジェンドたちにも活躍して欲しいと思います。


私が子どもの頃に触れた様々な作品の中で、私の心の「道しるべ」となった作品は、それなりに成長してからの作品でした。ならば、もしかしたら「仮面ライダーセイバー」は、まだ幼稚園児の息子の心にはかすかにしか残らないのかも知れません。彼にとっての「道しるべ」は、他の特撮作品になるかも知れないし、アニメや漫画、ゲームや小説になるかも知れません。はたまた、幼稚園や、これから出会う学校の先生になるかも知れません。何が彼の心の灯火となるのかを楽しみにしつつ、財布と相談しながら子どものおねだりと戦っていこうと思います。




余談ですが、息子にはまだ小さい事を理由に「仮面ライダー」の変身ベルトをずっと我慢させており、今作の「仮面ライダーセイバー」で我が家はようやく解禁としました。しかしこんなにも次々「ワンダーライドブック」が発売されるのであれば、我が家が「仮面ライダー」をちゃんと見始めた「仮面ライダージオウ」の時に「ジクウドライバー(ジオウの変身ベルト)」と「ライドウォッチ(仮面ライダージオウのアイテム)」をめいいっぱい買っておき、以降の何作かは我慢させるべきだったかなと少々後悔しています。

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「ライドウォッチ」であれば歴代仮面ライダーのウォッチだけで済んだのに、「ワンダーライドブック」だと物語モチーフのライドブックだけに止まらず、歴代仮面ライダーのライドブックも発売されているからです。
また「聖剣ソードライバー」は剣を引き抜くアクションが必要なのに対して、「ジクウドライバー」はパーツが外れない点も幼児が扱うには危険度が少なくて良かったかなとも思います。
しかも今度の「スーパー戦隊」である「機界戦隊ゼンカイジャー」は歴代のスーパー戦隊の力を使うようなので、レジェンド商法に我が家はまたしても苦しむ事になりそうで戦々恐々しております…
スーパー戦隊」なんて45作品もあるじゃないか……!

小学生の親になって思うこと

先日、小学校の先生から
「○○くんがまだ帰宅していないらしいのです。○○くんとどこで別れたのか、お宅のお子さんに聞いてもよろしいですか?」
という電話があり、小学1年生の娘に電話を代わった事がありました。

我が子が通う小学校では登校は各自ですが、下校時は集団下校をしています。学年ごとに日々の授業のコマ数は異なるので、たまたまその日は同じ時間帯に下校になろうと、その集団下校は学年ごとのグループとなります。
行方不明となった○○くんと私の娘は同じグループなので、どこまで一緒だったのかを聞きたいという事でした。

その日は短縮授業のため普段よりも下校時間が早く、○○くんのお母さんは、その下校時刻にご自分の帰宅がギリギリ間に合わなかったのだそうです。時短勤務かパートタイムかで働き、子どもの下校時刻にはお母さんが家にいるようにしていた家庭だったのか、○○くんを学童保育に入れる事も、玄関の鍵を持たせる事もしていなかったのでしょう(我が子とは幼稚園が異なったので事情は分かりません)。
寒空に子どもが家に入れずに困っているだろうと急いで帰宅してみると、どこにも息子の姿がない。慌てて学校に相談をし、同じ帰宅グループの家庭に学校側が電話をしたという流れでした。
結局○○くんは同じ帰宅グループの男の子の家にいる事が分かり、一件落着となりました。

もうすぐ二学期も終わろうという今、改めて幼稚園と小学校の違いを保護者目線で挙げるならば、私は「小学校は下校時間の変化があまりにも多い」事だと思います。
もちろん幼稚園でも運動会や学習発表会(お遊戯会)前日、学期末などは午前中にお迎えの日はありましたが、保護者が降園時間にお迎えに行けない場合には、幼稚園の先生にそのまま延長保育をお願い出来たので、子どもの身の安全は確保されていました。ところが我が子が初めて小学生になった今、やれ今日は15時30分下校だ、今日は給食なしだ、今日は13時40分だ、14時30分だ、13時15分だと様々な時間に下校となる事に(自分もかつて経験しておきながら今更)気が付いたのです。下校時間がまちまちになる理由の殆どは先生方の研修会など、先生の都合によるものでした。これでは外で仕事をしている保護者は常に子どもの帰宅時間を気にしなければならなくなるので、気が気ではないだろうなと思うのです。
仕事などで小学校低学年の子の下校時刻までにその家の大人が在宅できない場合の為に学童保育がありますが、その場所が小学校とは別の場所にある事も、ついこの間まで幼稚園児だった子どもの事を考えると私には不安があります。学校から学童保育の場所までの道のりもまた、我が子の小学校ではグループで移動する訳なのですが、途中に大きな交差点があるからです。またその学童保育にも定員があるので、何らかの事情で突発的に利用しようと思っても、それが叶わず困ったご家庭もあるのではないでしょうか。
我が家が住んでいる地方自治体には一つだけ私立の小中学校があるのですが、そこには学内に学童保育があり、更にスクールバスで送迎という特色があるそうです。私が夕方にそのバスを見かけた時には、幼稚園児から中学生くらいの子までもが一緒に乗車していました。もちろん利用にあたってはそれなりの金額が請求されるのだろうなとは思いますが、このような取り組みがある事を子どもの幼稚園願書提出前に知っていれば、この学校の付属幼稚園から子どもを通わせておくべきだったと悔やんだ方がいてもおかしくは無いと思いました。それが理由かは定かではありませんが、娘が幼稚園時代に同級生だった子のうちの数人は、公立ではなく、この私立の小学校に進学しています。

「小1の壁」とは、子どもが小学生になった時に、主に母親が、これまでと同じようには働けなくなってしまう社会的な問題の事です。これまで私は「そうは言うものの、学童保育があるでしょ」と高をくくっていました。ところが実際に自分の子どもが小学生になってみると、朝に学校の玄関が開くのは7時40分からで、それより早くは児童は校舎に入れないという決まりがある事に驚きました。親御さんは勤務地によってはかなり早く自宅を出なければならない方もいるでしょうし、朝早くから仕事がある方もいるでしょう。その家で最後に出発する人が小学1年生の子どもだったなら、戸締まりなどの不安が拭えない事は想像に難くありません。親の出勤時間と一緒に自宅を出たのか、朝7時前から校門付近にいる児童も実際にいるらしく、学校から配付された文書には「7時40分頃に校門に着くよう調整して下さい」というものがありましたが、家庭によってはそれは酷だろうと思いました。早朝に学童保育は(少なくとも我が家が住む自治体には)無いのです。

PTA活動というものもまた、家庭に大きな負担を強いている事もあるかと思います。少子化問題を取り上げたネットニュースに投稿されたコメントの中に「PTA活動が嫌すぎて子どもを多く持てない」というものを目にした事があります。子ども一人で六年間。年子で子ども二人なら七年、二学年差で子ども二人なら八年、それ以上ならもっと長い期間、保護者はPTA活動に関わる事になります。
我が子の幼稚園の役員決めは、仕事がある方や未就園児がいる方、妊娠中や介護などがある方は最初から候補から除外されていました。また全保護者が参加する活動も、日程を選べました。ところが小学校のPTA活動ではそういう配慮は一切無いらしく、現在学年委員長をしている方のご家庭には未就園児のお子さんがいらっしゃるそうです。今年度は新型コロナウイルスの感染予防対策で殆どのPTA活動が行われていない事は幸いだったと思いました。
私には現在、登校時間の横断歩道の見守り活動が割り当てられていますが、何人かで組んで当番制になっているそれに、実を言えば全員が参加している回は今のところ一度もありません。小学生が登校する朝の7時から8時までの一時間程度であっても、自宅から離れられない方や、もう出勤していなければならない方が多いのだろうと思います。専業主婦の私も、夫の出勤時間が早いので、幼稚園に入園した下の子を早朝預かり保育にお願いしておかなければその活動には参加できません。我が家は何とかなっていますが、PTAは核家族は想定していないのか、子どもは小学生以上しかいないと思っているのか、未就学児を一人で留守番させる事を推奨しているのだろうかと実はモヤモヤしています。私の子どもが通る訳ではない横断歩道に立つ度に、そんなに児童の安全が心配なのであれば、いっそ警備会社に依頼して、それをPTA会費で賄えば良いのにと実は思っています。

冒頭に挙げたように、子どもの下校時間がまちまちなせいで、保護者は仕事のリズムが一定に出来ないという問題もあります。それが仕事が響かないようにする為には、最も早い下校時間に常に合わせた勤務スタイルにしておくしかないと思いますし、学童保育が利用できても、学童が休みの日には必ず休みになる仕事しか出来ません。
そもそも、どうして小学校の校舎の中で児童の預かりは出来ないのでしょうか(もしかしたら我が家が住む自治体だけなのかも知れませんが)。例えばアメリカの小学校などでは校内の掃除は用務員さん、あるいは清掃業者の方のお仕事なので、児童に残られていては掃除の邪魔になる為に早く下校して欲しいだろうと思います(そしてスクールバスや保護者が迎えに来るのが一般的との事)。しかし日本では掃除は児童らが行うので、放課になった後も児童が校内に残っていても邪魔にはならないように思います。高学年がクラブ活動をしているのと同じように、低学年にも学童クラブが校内にあれば良いのです。教師に授業の準備や研修会などあって手が一杯であるならば、クラブの顧問は外部の方に依頼すれば良いのではと思うのです。学校のセキュリティチェックが大変だと言うのであれば、事務の方をもっと多く雇えば良いのでは。それが出来ない理由が分からないので、私は単純に、そんな風に思うのです。

私が小学校の入学説明会に出席した時に戸惑ったのは、我が子が通った幼稚園の保護者会とは出席者の雰囲気がずいぶん異なったからでした。幼稚園と保育園ではそもそもの利用目的が異なりますし、園によって様々に特色があります。それ故に、似たような考えの家庭の方がそれぞれの園に集まりやすいのだろうと思います。しかし公立小学校は単純に住んでいる学区で進学先が分けられるので、様々な家庭の方が集まります。どの家庭にもそれぞれに事情があり、だからこそ我が子が通った幼稚園の役員決めのような配慮をしてはいられないのでしょう。
幼稚園や保育園は義務教育ではないので、園にとって園児やその保護者は「お客様」です。その感覚が保護者から抜けきらないので、例えば先の私のように、「下校時間がまちまちで困る」などと、「いつも同じ時間まで子どもを預かっていて欲しい」というように、保護者と学校側とで認識に齟齬が生じてしまうのではないかと思います。
小学校は小学校で、公立であるが故か、「みんな平等」を気にし過ぎのような気がします。校舎内に学童保育が設置できないのも、それを利用する児童ばかりが先生と、より親しく交流できるようになってしまうからなのかも知れません。きっと、校内で学童保育をする場合、児童全員を対象としなければ、どこからか「不公平だ」という声が上がるのでしょう。

小学校はあくまで教育機関。家庭と一緒に子どもを育てるパートナーだった幼稚園や保育園とは立場が違うのです(幼稚園も文科省管轄の教育機関ですが、「生活」を教えている点では差異は無いかと思っています)。私の子どもの連絡帳は子ども自身が書いてくる連絡事項程度しか書いていない為、まだまだ残りページに余裕がありますが、娘が言うには、同じクラスの中には、既に二冊目もだいぶ進んでいる児童もいるそうです。何をそんなに書く事があるのか分かりませんが、それは対応する先生の本業の範囲内である事を願います。
私たち児童の保護者は、もう「お客様」ではないのです。PTAは、日本語では父母と教師の会。どちらかがどちらかに使われる立場ではなく、協力して児童の育成に携わるのが本来の姿なのだろうと思います。先日は私が横断歩道の見守り活動で目撃した、危険だと感じた児童の行為を活動日誌で報告したところ、交通安全担当の先生が全校集会で注意喚起したらしく、子どもの担任の先生から我が子の連絡帳にお礼の一文がしたためられてきました。しかし、先生から「お礼」をされるのも何だか違うような気がしています。
今年度は新型コロナウイルスの影響で、殆どのPTA活動が行われていないようです。それでも我が子は今のところ欠席する事なく登校しており、行事は形を変えたり無くなったりはしても、先生方のおかげで学校活動に特に支障は無さそうです。だからこそ余計に、PTAとは一体なんなのか、存在意義がよく判らなくなってきました。

今年も残りあと僅か。来年度こそはPTAが動かなければならない行事が開催されるのか否か。開催されたあかつきにはPTAの存在意義が知らしめられるのか。それを確認するまで残りあと8年、PTAママでいる事が少しだけ楽しみになりました。

その人らしい服、記号としての服

NHKで放送されていた「未来少年コナン」を観た時に、こんなにも資源に限りのある環境であるにも関わらず、女性が女性用の衣類を着ている事に気が付き、私は妙に感心してしまいました。
未来少年コナン」とは、核兵器以上の威力を持つ「超磁力兵器」が用いられた最終戦争が勃発し、大陸は変形し地軸も曲がり、多くの都市が海に沈んでしまった後の未来の物語です。過酷な環境の中でも生き延びた人々のうち、前時代の巨大な塔を中心とした都市のインダストリアでは、人々は階級によって生活を分けられていました。
市民階級の最下層は奴隷同然の扱いを受けており、茶色の粗末な衣類を着ています。もしかしたら他の市民階級でも階級や従事する仕事によって着用できる衣類は決まっているのかも知れません。インダストリアの上層部の人間として登場する女性は兵の指揮を執る立場であるので男性戦闘員と同じ服装でいる事が多かった為(淡い黄色系のワンピース姿で登場した事はありましたが)、資源が乏しいこの世界では、仕事上での制服は男性用も女性用も特に分けられていないのだろうなと私は勝手に解釈していました。
ところが最下層民である地下の住人をよく見ると、女性は男性同様の茶色の衣服ではありましたが、下がスカートになっていたのです。行政局次長が専用の制服ではなく男性戦闘員と同じ服装をしているのにも関わらず、奴隷の衣類には男性用と女性用がある。しかも、布を多く使用するスカートを。
物語、しかもアニメなので女性は女性だと分かりやすくなるようスカートという記号を当てはめただけなのだろうとは思いますが、下着ならばともかく、そこまでして衣類は、男性用と女性用とに分けなければならないものなのでしょうか。

我が子の幼稚園の制服は、上はブレザーで、中には白ポロシャツを合わせ、下は男児は吊り半ズボン、女児は同じ柄の吊りスカートです。ブレザーは男女共用なので、上の子である娘が入園の時に購入した制服を、娘が卒園した後に入園した息子がそのまま着用しています。ちなみにボタンは着た人から見て右側にあるので、形式としては男性用の作りとなっています。
この制服ですが、娘の時には防寒や下着のチラ見え防止、園内での着替えの時短の為に、制服スカートの下に幼稚園内ではくハーフパンツをはかせて登園させる事がよくあったのですが、半ズボン制服の男児にはそれが出来ない、という点が個人的にネックだと思っています。ハーフパンツの方が制服半ズボンよりも丈が長く生地も厚く、重ねばきをするとハーフパンツがもこもこしてしまう為、女児のように制服の下にハーフパンツをはかせての登園が男児には出来ない。男児こそ登園したならば、さっさと着替えて遊びたいだろうになと思うのですが、女児のように既に着ておく、という技が使えないので、私としては半ズボンの制服は少々面倒に感じています。またサスペンダーがあるせいで、ブレザーを着る季節は特に、園児のトイレの時には先生方が大変なのではないかという点も実は憂慮しています。

その幼稚園では先日、コロナ禍ではありますが学習発表会(お遊戯会)が開かれました。ダンス時に着用する衣装は園が用意してくれるので保護者としては大変楽なのですが、女児のみ、特別な用意をしなければなりませんでした。それは白のカバーパンツ(見せパンツ)です。
衣装のスカートは、より可愛らしく魅せる為か短い仕様になっているので、カバーパンツを着用しなければ踊っている最中に下着が見えてしまうのです。それに対し男児の衣装は女児衣装のスカートと同じ丈、同じ柄でありながら半ズボンなので、カバーパンツは不用なのです。
私は今回、男児の親なのでカバーパンツの用意はしなくて済みましたが、女児の親で、その子が一人目の子だという親御さんは「カバーパンツって何? どこで売ってるの?」と戸惑っていました。もちろん私も女児である上の子の時には、慌てて用意したものです。
男女混合ダンスで、見た目には大きな差異のない衣装なのに、男児と女児では事前の準備が異なる。いっそ女児も半ズボンの衣装にしてしまえば保護者の苦労は平等になるのになと思いました。

何故、女児はスカートでなければならないのか。その問題提起として、男子生徒がスカートを着用する活動が行われているという記事を読みました。


男子生徒がスカートで登校。何が起こった?制服への抗議運動が、カナダの高校生の間で広がる
https://m.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5f83a20fc5b6e5c32000327f?utm_hp_ref=jp-homepage&ncid=other_homepage_tiwdkz83gze&utm_campaign=mw_entry_recirc

カナダ東部のケベック州にある複数の学校で、制服のルールに抗議するために、男子生徒がスカートを履いて登校している。

現地メディアが複数の学生に取材。彼らが訴えているのは、ジェンダー平等と性的マイノリティの権利についてだ。

以前、私は「男子生徒がスカートを着用する方が不妊問題の解決になるのでは」というような内容を投稿したような覚えがあります(読み返す気は無い)。
このカナダでの活動は男性不妊の原因解消という視点ではなく、心のありように合わせて自由に制服を選べるようにするべきだという主張、性差別的なドレスコードや、女性の身体の過度な性対象化に異議を唱えてのものだそうです。

日本でも制服の男女差を無くそうと、姫路市延末の市立山陽中学校で、男女ともスラックスを標準とする新しい制服にすると発表した記事を以前読んだ事があります。

学校制服、男女でスラックス標準に 姫路・山陽中
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202009/sp/0013737981.shtml


女性はしばしば下半身を冷やすなと言われているにも関わらず、制服がスカートである事に私はずっと疑問を抱いていました。波風をたてても面倒だと学生時代はおとなしくスカートの制服を着用してきましたが、特に自転車通学となった高校時代は風に気を付けなければならないし、寒いしで、本当にスカート制服は嫌でした。多くの女子生徒はスカートの下に運動着を重ねばきしており、教師の目がある所ではジャージを膝まで折り曲げ、スカートからはみ出ないように誤魔化していたものです。
制服が男女とも同じスラックスとなれば、サイズさえ合えば性別問わずにおさがりが可能となるので、資源の無駄遣いも減らせて一挙両得な気がします。

以前放送されたNHKチコちゃんに叱られる!」では、シャツのボタンが男女で逆に付いているのは何故か、という質問が登場しました。答えは「女性は他人に服を着せて貰っていたから」でしたが、それは高貴な女性が着るドレスは構造が複雑で、一人で着る事がとても大変だった事が切っ掛けでした。
現代の多くの女性は、自分の衣服は自分で着ている事が多いかと思います。ならば男性と同じように、女性のシャツも大半の人の利き手である右手で留めやすい側にボタンはあるべきだと思うのです。

男性と女性が同じ衣服をまとう事になると、何が問題となるのでしょうか。まず浮かんだのが、女性には乳房があるので、胸部のサイズに合わせて衣類を選ぶと、ブラウスなどの裾部分が腰でもたつく事がある、という問題です。男性のワイシャツなどが真っ直ぐ下に下りてくる形状であるのに対し、私の手持ちのブラウスは胸部より下にかけては身体にフィットし、細く見えるようにデザインされています。
いわゆる萌え絵における「乳袋(ちちぶくろ:服の布地が乳房に貼り付いているかのような不自然な描き方)」のような立体縫製のデザインになっているおかげで、女性用ブラウスは女性の身体のラインを強調しています。男性が誤って、こうしたデザインのシャツを着用しないようにする為には、ボタンの付く側は現状のように男女で別々のままの方が良いのかも知れません。
しかし、そもそも女性用の衣類で身体のラインを協調させる理由とは何なのでしょうか。中世ヨーロッパ等で高貴な女性が着用していた裾が円型に広がった、いわゆる輪っかドレスや、骨盤辺りで横に広がったようなデザインのドレスは、女性の体型を強調し、性的魅力を増大させる為のものであったかと思います。同じように現代の女性のブラウスなどの立体縫製もまた、男性に女性性をアピールする目的が少なからずあるのだろうと思います。
Eテレ「デザインあ」では、衣類を着る目的は防寒や怪我などからの防御、これから仕事だ、あるいはパーティーだと気分の変化を盛り上げる道具、そしてスポーツの試合で誰がどのチームなのか見分ける事が容易になる為だと挙げられていました。冒頭に挙げた「未来少年コナン」でも、スカートは、この人は女性だと分かりやすくする為の記号だろうと予想した通り、衣服はその人を現す記号としての役割もあります。ならば中学や高校の制服が男女ともスラックスになってしまうと、教師が生徒を識別する事が大変になってしまう、という問題が勃発するのかも知れません。

姫路市延末の市立山陽中学校では、申請すれば男子生徒でもスカートの制服が着用可能となるそうです。すると今度は、単に好みとしてスカートをはきたい女子生徒がスカート制服を選んだだけで「男性に媚びている」などと中傷を受けかねません。それはそれで、心の侵害となってしまうでしょう。
マクドナルドのハッピーセットの玩具は毎月内容が変化し、2020年10月30日からは「リカちゃん」と「プラレール」になっています。そのリカちゃん玩具は、過去に実施された分を思い返しても、いつもドレスです。女児の好みはドレスが鉄板だからなのでしょう。今回のハッピーセットの中の「アラビアンナイトリカちゃん」は、娘は「これはズボンだから可愛くない」とすら言います(ドレスパーツを着ければドレスになるのに)。
この好みはどこから発生するのか分かりませんが、女性がスカートを可愛いと感じるのは事実で、我が子の幼稚園の学習発表会のダンスの、女児たちのスカート姿は大変に可愛らしかったです。男児と同じく半ズボン着用で女児が踊っても、やはり可愛かったとは思いますが、女性の私から見ても裾のひらめく様は格別の可愛さがありました。
制服がスカートかスラックスか選べる中で、女子生徒がスカートを選んだからといって、全員が男性に女性性をアピールしたい訳では無いと思います。私は基本的にパンツスタイルですが、雨の日などは裾が濡れるのが嫌で、スカートを選ぶ時もあります。しかしスカートをはいたからといって夫以外の男性とどうこうなりたいなどという願望はありません。
自分がこうしたいから、その衣類を選ぶ。男性がスカートをはこうが、女性がスカートをはこうが、ただそれだけの事なのに、余計な意味を付け加える人がいるせいで、様々な事が自由になった筈なのに、なんとも窮屈な感じが拭えません。
何かと話題の漫画・アニメ「鬼滅の刃」では、ある男性キャラクターがまとっている羽織は、半分はそのキャラクターのお姉さんの羽織だったものだそうです。しかし作中で「女物を着ている」などとのからかいは受けていなかったように思います(半々羽織と呼ばれる事はありますが)。彼はきっと、自分の意志で、自分が背負うものをまとっているのでしょう。
衣類とは、初めはただ身体を守る為に発明されたものかと思いますが、今ではその人が望む、望まないに関わらず、様々な意味が追加されるようになってしまいました。もっと自由に、この場合はこちらが便利だからという程度で選びたいものです。



実を言えば登園したらすぐにスモッグとハーフパンツに着替える幼稚園児に、式典の日以外で制服を着用する必要がそもそもあるのかとすら私は思っています。お着替えの練習だと言われれば納得は出来ますが、それにしてはお値段が…

キラキラとふわふわ

そのニュースの見出しを見た瞬間、あの日の高揚感を思い出しました。
下の子の幼稚園の初登園日、担任の先生に子どもを任せ、子どもに「行ってらっしゃい!」と手をふってからの、ふわふわとした感覚を。

今の私は何だって出来る。
ああああ、これから何をしよう!?

何でもと言っても所詮、髪を切りに行ったり、コンビニにふらりと立ち寄ったり、自分の好きなタイミングで掃除機をかけられるといった程度。しかも入園したてゆえ降園時間は11時なので、得られた自由時間は二時間だけです。
コロナ禍だったので送迎時には保護者もマスク着用は必須。なので私の顔の下半分はマスクで隠れていた筈なのに、「お母さん、すごく嬉しそうですね!」と上の子の時からお世話になっている園長先生に頬のゆるみを笑われるくらいに、自分だけで行動できる時間が出来た事に私は浮かれていました。

何しろここ数年間、私の行動は全て子どもありきだったのです。子どもの機嫌の良い間にこれをしなければ、昼寝の前にあれを済ませておかなければ…という風に、私のあらゆる行動は子どもを中心に組み立てられていました。妊娠中には独身友人から誘われた映画鑑賞を「何かあってはいけないから」と断った事もありますし、普段の買い物も、帰り道に子どもが抱っこをせがんで来た時の為に量を制限するなどをした事は少なくありません。
これまで上の子を幼稚園に登園させた後は、未就園児の下の子の興味のおもむくままに寄り道を余儀なくされながら帰路についていました。それがとうとう下の子の入園で、私は初めて一人きりで帰宅する事になったのです。
下の子の初登園日の帰路は自分のペースで最短ルートを歩ける事に道中感激し、帰宅した際に時計を見て、こんな時間に帰って来れたと胸が踊ったものです。

だからこそ、
「赤ちゃんいると夢かなわない」
この見出しに鼻の奥が痛みました。


「赤ちゃんいると夢かなわない」 元女子大生 遺棄後も就活続ける
https://www.fnn.jp/articles/-/102888

兵庫・神戸市の北井小由里容疑者(23)は、女子大生として就職活動中の2019年11月、産んだばかりの自分の赤ちゃんの遺体を東京・港区東新橋の公園に埋めた疑いが持たれている。

その後の調べで、北井容疑者は動機について「赤ちゃんがいると、わたしの夢がかなわないと思った」などと話していることが新たにわかった。

結婚して、全力で母親になる為に退職し、その年度中に上の子を妊娠。一般的なきょうだいの年齢差として、二歳差あたりで次の子を授かるべく妊活を進めるも、次の子は上の子とは三学年差で出産。母親になる為に捨てたキャリアを考えると胸がチクリと痛みますが、それでも私は今の自分に満足している。
上の子を幼稚園に登園させてからは、昼間は下の子に付きっきり。幼稚園児は昼過ぎには降園となるので下の子を連れて迎えに行って、夫が帰宅するまでを3人で過ごす。どこへ行くのにも子どもが一緒、そんな生活に不満はない。何しろ「母親」とはそういうもので、私はそうする為にキャリアを捨てたのだから。
子どもがいれば、それこそが「幸せ」で、母親自身が自分の為にあれをしたい、これをしたいなどとは願ってはならない。そう覚悟して私は母親になりました。
しかし、滅私の覚悟をして母親になったにも関わらず、それでも下の子どもが幼稚園に入園した時には、自分の自由な時間が持てるようになった事にあれほどの解放感を味わったのです。
だからこそ、この女子大生が自身の妊娠に気が付いた時の絶望がどれ程のものだったのかと、あの日の高揚した自分と対極にいたであろう彼女の事を思うと、やるせない気持ちになってしまいます。

「赤ちゃんいると夢かなわない」

私は、いくつの夢(やりたい事)を捨てたのだろう。
私自身も実はかなりの我慢をしていたのだとの事実を突き付けられ、幸せだと、自分に嘘をついていた事実を認めざるを得ませんでした。

母親になると諦めなければならない事がいくつも出てきます。上の子の妊娠後期に美容院に行った私が次に髪を切りに行けたのは、およそ二年後、夫が子どもと二人で留守番が出来るようになってからで、行ったのは30分もかからないで終わる1000円カットの店でした。行きたいと思った場所も、でも子どもを連れていく労力をかけてまで行きたいかと自問すると、さほどでも無くなり、独身の頃と比べると、小さな我慢や諦めはとても多くなりました。
今は、小さい子どもがいる母親もお洒落をしてどんどん輝けと様々な特集を目にしますが、所詮キラキラ出来るのはごく一部の人だけ、あるいは短期間だけだと私は既に諦めてしまっています。自分の何かを買うよりは、子どもが喜ぶお菓子や玩具を買いたい。その気持ちに嘘は無いつもりですが、予算にあまり余裕が無いので、単純に、自分の事はどうしても我慢して後回しにしなければならないだけなのです。
でも本当にそれを納得していたかと問われると、自分に嘘をついて誤魔化していただけなのだとの事実を、否応がなく受け入れるしかなくなるのです。

事件は新卒での就職活動中で起きた事のようです。新卒というカードは人生で一度きりの切札。私もかつて、リクナビマイナビといった就活サイトのお世話になりました。未経験であらゆる職種、企業に挑戦できる「新卒」という立場は本当に魅力的です。
テレビドラマに出てくるような憧れの職種、誰もが知っているような有名企業で働く自分。新卒での就職活動とは、頑張りさえすれば、どんな夢だって叶えられると信じている頃だろうと思います。うまくいくだろうかと少しの不安を抱えながら、しかし期待でキラキラしながらリクルートスーツも選んだのではないでしょうか。

私が会社勤めをしていた頃、新卒で入社した社員の中に、内定が出た後に学生結婚をしたらしく、子どもも産まれていた男性がいました。男性は他の同期よりは少し多い入社書類(妻と子の分の住民票など)を提出した程度で、普通に入社し、普通に新人研修に参加し、妻と子ども分の家族手当ても支給されながら、普通に働きました。妻の事はこちらの会社にとっては普通に「社員の配偶者」という扱いとなっただけです。男性と同級生だったらしい彼女がそもそも就職活動をしていたのかどうかは私には分かりませんが、男性社員は、他の独身新入社員と給与以外の面では何ら変わり無く働いていたようでした。
これが、女性側が内定者だった場合にはどうなっていたのでしょうか。入社前に出産したとしても、産休育休が必要になったかも知れません。
育児休業とは子を養育する労働者が法律に基づいて取得できる休業の事ですが、申請が認められない場合もあります。それが、

当該事業主に引き続き雇用された期間が一年に満たない労働者

育児休業申し出があった日から起算して、一年以内に雇用関係が終了することが明らかな労働者

一週間の所定労働日数が2日以下の労働者

だと、施行規則第7条にて定められているそうです。

つまり入社もしていない、ただの内定者では、育児休業は申請できないのです。成人していれば学生同士でも結婚は出来るだろうと思いますが、学費を親が出していたのであれば、親の許可が無ければ結婚は認めてもらえないでしょう。しかし親が学生結婚を認め、既に妊娠もしていれば、赤ちゃんの養育に親(赤ちゃんからすれば祖父母)が深く関わる事になるかと思います。
産後6週間は産婦本人が希望しても働かせてはならない決まりですが、2月中旬までに出産を終え、赤ちゃんの養育を自分たちの親に全て任せれば、4月には女性も新入社員として入社し、働けるのかも知れません。しかし、このような女性を新卒として受け入れる企業はあるのでしょうか。
新卒新入社員には教えなければならない事が山ほどあるので、企業側としては「無理がきく」人材である事が望ましいのではないかと思います。私が所属していた会社では新卒新入社員には入社前に一週間の泊まり込み研修がありました。朝から夜までの研修は、健康状態が良好な者であっても心身ともに疲れるものでした。
仮に2月に出産を終えて4月に入社した場合、産後二ヶ月では悪露(おろ、産後の子宮からの出血)も治まりきっておらず、乳房には母乳がどんどん貯まりギンギンに腫れるので、赤ちゃんと離れていれば頻繁に搾乳しなければ痛くてたまらず、まともに講義を受けていられないのではないかと思います。緩んだ骨盤が回復していないので長時間の立ち姿勢は辛く、帝王切開での出産であれば腹部の痛みも相当なものではないかと思うのです。
そんな人材を企業が新卒として雇うとは私には思えません。無事に単位が取得できて学校を卒業してきたとしても企業は家族構成に虚偽があったとして内定辞退を促すかも知れませんし、もしその年度に卒業出来なければ、当該年度卒業見込みの者としての就活は虚偽となり、内定取り消しとなるでしょう。入社したとしても最初の数ヵ月は試用期間だったりするので、試用期間で雇用契約満了とされる可能性もあるのではないでしょうか。
出産してから既に半年以上が経過し、子どもを保育園に入園させたり、親(赤ちゃんからすれば祖父母)が養育していたりしていたとしても、小さな子どもがいる母親を、独身の女性たちと同じ業務には着かせられないと、時には善意から、扱いが変わる事もあるのではないかと思います。入社して数年が経過している社員であってもマミートラック問題が出てくる社会では、バリバリ働く事を期待されての新卒でありながら既に子持ちの女性など、入社すら認められないのではないでしょうか。
男性が内定者のうちに子どもが産まれても扱いは殆ど変わらないのに対し、女性が内定者のうちに出産したならば、扱いが変わるだろう事は想像に難くありません。そもそも妊娠している女子学生に正社員の内定を出す企業があるとも思えません。それは、子どもは企業にとってリスクに思えるからです。子どもを理由に他の社員と同じように働けない人材は、企業にとって荷物でしかないのではないでしょうか。
家事育児は女性がするもの、という常識の社会において、男性は父親になっても生活が変わる事が少ない一方、女性が母親になるという事は、とてつもない重荷を背負う事になるのです。幼児のいる男性が飲み会に出るのに特に何も言われないのに対して、子どもがいる女性が飲み会に参加すると「子どもはどうしたのか?」と問われる例などは、容易に想像できるかと思います。
その重さは、覚悟の上で背負い、収入を夫任せにしていられる私ですら、二時間、幼稚園の先生に任せられる事になっただけで舞い上がる程なのです。仕事を持っている女性にはそれよりも重く感じられ、収入が無い未婚の、新卒就活中の女性には抱えきれなくなっても仕方がないのではないでしょうか。

新卒で入社できなくとも、25才あたりの若いうちであれば第二新卒という扱いを受けられる事もあるでしょう。しかし、それは独身・子無しである事が前提なのだろうと思います。40代までの女性の入社希望者が既婚者であれば、いつ産休育休を申請してくるか分からないリスクを企業は負います。子どもがいれば、それなりの配慮が社会通念上、求められると企業側は考える為、特に女性は願った職種には雇用がされにくくなるように私には思えるのです。
新卒で入社出来なければ、雇用される機会が二度と得られない職種や企業はあると思います。今回報道された事件は、新卒一括採用に重きを置く雇用慣行の弊害、産休育休を申請する従業員をリスクと考える企業の風潮、または自らをそのように(誤)判断してしまう社会土壌の影響、性教育の不十分さから招いた事態、母親が家事育児をする事が普通と考える社会常識、いずれもが絡み合って起きたものなのだろうと思います。

別の報道によると、彼女が産婦人科を初めて受診した時には、既に妊娠22週を過ぎており、人工妊娠中絶は認められない状態だったそうです。もはや産むしかなかった状況で頼りにすべき、子どもの父親にも自分の親にも相談できなかった彼女の孤独を思うと、彼女だけを責める気には私はなれません。ただただ、あの日、二時間の自由時間を得てふわふわ舞い上がった自分が申し訳なくなります。

子どもがいて窮屈を感じる事があっても、子どもがいたからこその幸せもまた、間違いなくあるのです。彼女が誰かを頼れていたならば、得られる幸せもあったのだろうになと思うと、誰を責めたらよいのかも分からず、気持ちが乱れます。