xharukoの日記

妊娠、出産、育児の中で思った事をつれづれ書きます

「親」って何

ママやパパに聞いた「これが親になるってことなんだな」と思う瞬間

https://trilltrill.jp/articles/1032430

私には現在子どもが二人います。
しかしこの記事を読んで、いまだ私はきちんと「親」になりきれていないのだなと思いました。

以下、抜粋です

自分が代わってあげたいと思ったとき

「子どもが体調を崩して苦しそうにしているとき、心の底から私が代わってあげたいって思った。注射をして泣いているときも私が代わってあげられたらなって思う」(20代/主婦)

▽ 子どもの具合が悪いときに、自分が代わってあげたいと望むのも親あるあるです。子どもが苦しむ様子を見ていられず、少しでも早くよくなってほしいと望み、心配をします。自分のこと以上に心配になるときに「親になるってこういうことなんだな」と感じるそうです。

記事では上に挙げた「自分が代わってあげたいと思ったとき」の他に、
・遊びに行く場所は子ども優先
・自分の好物を分け与えたとき
・他人の子どもを心配したとき
・携帯に子どもの写真ばかりが増えていく
・嫌な仕事も頑張れたとき
という項目が親になったと自覚した出来事だと挙げられていました。

確かに外出はもっぱら子どもが喜ぶ行き先を考え、子どもが私の好物を「ちょうだい」と言ってくれば食が細い娘の場合はそれこそ喜んで分け与え、時には追加を用意し、子どもの写真は画像データでは消えてしまうかも知れないのでベストショットだけを選別し現像しているつもりなのに夫が呆れる程にどんどん貯まっていく。
しかし、私は子どもが体調を崩した時に代わってやりたいとは思いますが、その理由は「子どもを苦しみから解放してやりたい」ではありません。

私が子どもの体調不良を肩代わりしたいのは、「その方が掃除が楽だから」です。
まだ幼い我が子は自分の体調を把握できない為、トイレで嘔吐してくれません。
これが私なら吐きそうだと思ったら事前にトイレに籠るのに、子どもは用意した桶すら嫌がり、いたるところで嘔吐し、それを見てパニックになり私にしがみついて私の服まで洗濯対象にさせてきます。
鼻血を出した時には鼻の穴に丸めたティッシュペーパーを詰めさせてはくれず、逆にティッシュから逃れようと泣きながら私の背中にしがみつき、これまた私の服まで血塗れにする。
特にコタツ布団、ラグなどの大物は雪国の冬場には乾きにくいので洗濯が大変です。

自分の仕事を増やさない為に子の体調不良を肩代わりしたいと思うのは母が子に向ける愛情ではなく、私が楽をしたい為でしかありません。
翻って自分が子どもだった時に私が長座布団に嘔吐してしまった時の母は、どんな気持ちだったのだろうかと考えてしまいます。
長座布団に付着した私の嘔吐物を黙々と洗い流すその背中には、果たしてどのような気持ちが隠されていたのか。


「子ども、ほしくないかも」はどこからきているの? 不安の正体を暴く

https://www.buzzfeed.com/jp/akikokobayashi/hitogojyanai11?utm_term=.poN1Mz2xM#.huLWBOwpB

という記事によると、子どもは何人欲しいか5年おきに調査している国立社会保障・人口問題研究所の出生動向基本調査における最新の調査(2015年)で、18〜34歳の未婚男女が希望する子どもの数の平均は2.02人と、5年前の前回調査よりも低下したそうです。
また、夫婦を対象にした調査では、理想とする子どもの数は2.32人、予定している子どもの数は2.01人となり、いずれも過去最低となったそう。

育児は大変そうだから子どもは欲しくない、収入などの面で子どもを育てる自信がないと多くの若者が考えている事が分かります。

しかしその根底にあるのは
「親が自分にしてくれたように」子どもを育てる自信がない、という考えなのではないかと思うのです。


自分が子どもの頃の両親と“今の自分”を比べた漫画 親はスーパーマン? 「じんわり来た」と反響

https://otonanswer.jp/post/20756/


子どもの頃の両親と現在の自分を比べた漫画が話題に。子どもの頃は、両親が“スーパーマン”のような存在だったと回想する女性ですが、当時の両親の年齢に近づき…。

こうした見出しから始まる、SNSに投稿された漫画を取り挙げた記事があります。自分が小さい頃の両親は“スーパーマン”のような存在だったのに対し、その頃の親と同じ年齢になりつつある自分は
「今でも分からないことや できないことだらけ」
「年齢を重ねれば勝手に大人になっていくものと思ってたけど そうじゃなかった」

この漫画に私も大いに共感しました。
幼い頃の私にとって親は確かにスーパーマンでした。何でも知っていて、何でも出来る人だと思っていましたし、そうする事が出来る人を「大人」と言うのだろうと思っていました。
ところが自分が当時の親と同じ年齢になった時に気が付いてしまったのです。
自分は世の中の仕組みを当時の親ほど知ってはいないのではないか、という事に。

親はスーパーマンではなく、自分と同じ人間なのだと気付く事が自立の一歩だと言います。親にも出来ない事、知らない事はあるのだと気付くようになり、その欠陥を受け入れる事こそが子どもが大人に成長する一過程です。中学生になる頃には殆どの子どもが「親も万能ではない」と気付き、親離れが始まるかと思います。
しかし、それでも自分が子を産んでから改めて思うのです。
私と同じ年齢だった当時の親は、今の私よりも優れていたと。
私は年齢だけ追い付いても、中身はまだまだ追い付けていないのだと。

子どもの時に抱いていた親のイメージは「私が何をやっても受け入れ、諭し、問題が生じた時には良い着地点に落ち着けるよう私の知らぬ間に善後策を用意してくれる存在」で、親も万能ではないと知っている今でさえ、もし私が困った時には問題を解決に導いてくれるだろうと未だに期待してしまっています。
ところが子を持つようになった今、自分は我が子を、当時の親のように上手に導いてやれているだろうかと自問すれば答えは「いいえ」です。
どう思い返しても当時○○才だった親が出来ていた事を、同じ○○才の自分は出来ていない気がするのです。

子どもを欲しいと思わないと考える人が増えたのは、こうした「今の自分は当時の親と同じ事を子どもにしてやれない」という意識があるからではないかと思うのです。
それは育児と仕事の両立であったり、万能な家事能力であったり、学費を用意する経済力だったりと様々です。
例えばインターネットの匿名掲示板では、これまで馬鹿にしていた親の年収を知った人が事実に驚愕し、それを話題として新しいスレッドを立てたものを見た事がありますが、ここでやりとりされた内容の殆どが「親って凄い、でも自分は…」でした。

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親が自分にしてくれた事を、自分は子に出来ているのだろうか。
子どもを産んで私は「母」には成ったが、「親」には成れているのだろうか。

紹介した漫画では
「お父さんとお母さんも決してスーパーマンじゃなかったんだろう」
「そして今 子供達にとっては、私がスーパーマンなのかもしれない」
「もしそうなら、父と母のようにはなれなくても」
「“何でもできるわけじゃないけど、ママがいれば大丈夫”」
「そんな安心を与えてあげられる存在でありたい。」
と結んでいます。


私が子どもの頃に長座布団に嘔吐した時、それを処理する母はどのような気持ちだったのか。
実はもしかしたら私が我が子に抱いたように
「仕事増やすなよ面倒だなー、こんな所で吐くなよなー」
だったのかも知れません。
しかし仮にそうだとしても、当時の私は母の背中からはそのような気持ちは読み取れませんでした。

ならば私はせめて、嘔吐物の処理を面倒だと思うその気持ちを、我が子にだけは察知されぬよう淡々と片付けよう。
体調不良の苦しみから我が子を解放してやりたいと思っての「代わってやりたい」という気持ちにはまだなれないし、私以外に処理する人がいないという消極的な理由ではあるけれど、せめて我が子が自身の嘔吐物を前にして気まずい思いをする時間を少しでも短く出来るよう、手早く片付ける事が私の目標です。


出生動向基本調査で浮き彫りにされた、子どもを欲しくないと考えている若い方々はきっと、育児のハードルを自ら高く設定してしまっているのだと思います。

そのような方々に、この程度の志で育児をしている者もいるのだと伝えたい。

案ずるより産むが易し。
あなたが思うほど完璧にはこなせなくても、もしかしたら人生の経験値が少ない子どもはそれでも、あなたをスーパーマンだと錯覚してくれるかも知れません。


というか、私の黙々と嘔吐物を片付ける後ろ姿を見て、どうか我が子が私をスーパーマンだと錯覚してくれますように。