xharukoの日記

妊娠、出産、育児の中で思った事をつれづれ書きます

卵子にも尊厳はあるのかも知れない

下記の記事を読んだ時に何とも言えないもやもやとした気分になりました。

"サルの子供を産みたい"女子大生は異常か

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181109-00026594-president-soci&p=1


生物遺伝学者のリー・シルヴァーは、あるとき次のような講演をしました(シルヴァー『人類最後のタブー』より)。

 「ヒトのDNAとチンパンジーのDNAは99パーセントまで同じである。チンパンジーとは染色体が似通っている。したがって、二種の交配による子どもは生存可能である。ヒトの精子チンパンジーのメスに人工授精すると、胎内の子どもが早く成長しすぎて死産する可能性がある。ただし、逆は可能である。人間の女性の胎内でならば、二種の交配が完成するかもしれない」

 講演のあと、一人の女子学生がシルヴァー先生の研究室にやってきていいました。

 「先生が講義で説明していたようなことをやりたい。私の卵子チンパンジー精子と合わせて、受精卵を自分の子宮で育てて、その観察記を卒論にまとめたい」

 まとめたら、名前は売れるし、実際素晴らしい卒論になるでしょう。この勇敢なリケジョの質問に、どう答えたらいいでしょうか? 

 シルヴァー先生は明確な回答を与えていないんです。彼はこういいました。「現実に胎内に受精卵が着床して、育ち始めたらどうする? 」

 少し間抜けな質問ですね。女子学生の答えはこうです。「早く卒論を書きあげて、書きあがった段階で中絶しますから心配には及びません」

読んでいる最中にイメージしたのは雄チンパンジーと性行為をしている女子学生の図でした。実験は不妊治療と同じく体外受精の手法を用いられるのだろうとは思うのですが、チンパンジー精子が女子学生の子宮に入り込むイメージが脳裏によぎり、喉元に嫌な感覚を味わいました。

生命と私たちが呼ぶのは胎児がどこまで成長してからでしょうか。堕胎が妊娠21週6日(妊娠6ヶ月)まで認められているのは中枢神経の発達が未熟で「ヒト」とはまだ呼べない段階だからだと聞いたことがありますが、それよりも前に超早産で産まれても医療の力で生存できる子どももいるそうです。
一般的に胎動を感じた場合、母体は自分の胎内に生命が息づいていると実感するかと思います。胎動は早い人だと妊娠16週(妊娠5ヶ月)頃には感じるそうです。産後に自分の腸が動いた時に、もう妊娠はしていない筈なのに「もう一人いるのかな?」と嬉しくなるくらい私にとって胎動はとても愛おしいものでした。妊娠後期は自分は一寸法師の鬼になったかと思う時もありましたが(内側から蹴られるのは防ぎようがない)。

早く子どもが欲しかった私は妊娠検査薬で陽性反応が出た妊娠5週には「お母さんになった!」と喜びました。
冒頭で挙げた記事ではチンパンジー精子とヒトの卵子を掛け合わせた生物を、最初から殺すつもりで女子学生は子宮で育てると言う。卒論を書きあげた段階で中絶すると女子学生は答えたそうですが、それは妊娠何週目になるのでしょうか。受精卵が着床した段階でそれはもう「生命」と言うのではないでしょうか。

ヒトとチンパンジーは染色体が似通っており、二種の交配による子どもは雄チンパンジーと雌ヒトの場合なら生存可能であるという。生物学に携わる人間なら実証実験をしてみたくなる気持ちは理解できますし、本当かどうか私も興味があります。これが他の霊長類同士の交配ならば既に行われているのかも知れませんし、雄ロバと雌ウマの交雑種であるラバ(雄ウマと雌ロバでの交雑はケッティという、また別の品種になるのだそう)という生物は既に存在しています。
自分の卵子と子宮を用いての実験にも関わらず女子学生が「卒論を書きあげたら中絶する」と躊躇なく答えたのは、勿論そのような生物を生き物として産んではいけないという倫理観からかと思いますが、生物学の世界では日頃から生命を実験対象としているが故に研究目的で生き物を「消費」する事への心理的抵抗が一般の人よりも弱くなっている為に言えた台詞でもあるのだろうなとも思いました。
そうした多くの実験の恩恵により沢山の人々が救われ、私が仮に今後大病にかかった時に治療して貰えるのはそこに至るまでに多くの生命が犠牲になっているからなのだと頭では理解しています。輸血や臓器移植も治療方法が提案されたばかりの頃は異様な事と嫌悪されていたかも知れませんが、現代は多くの人がその技術で助かっています。
なので「早く卒論を書きあげて、書きあがった段階で中絶しますから心配には及びません」、この台詞に生命を何だと思っているのだと私は断罪できる立場ではないと理解してはいるのですが、どうにも気持ちが追い付きません。

ヒトとチンパンジーとの遺伝子の掛け合わせを拒否する事は優性学に容易に繋がる、と記事にありました。優性学という言葉を聞くと私はまずナチスドイツを想起しますが、障害のある人に不妊手術を施し、子を持たせないようにする、これは日本でもつい数十年前に優性保護法の名の下で行われていた歴史的事実です。
産まれてくる子どもに障害があるかどうかを検査する出生前診断の結果による中絶は命の選別だとも言われます。ならば最初からヒトとは異なる生き物だと分かっている胎児を妊娠し堕胎する事は何と言うべきなのか。
ヒトとチンパンジーの遺伝子を掛け合わせた受精卵を、いずれ殺す為に着床させる。知りたいのは妊娠の経過観察だけで、宿った生命には命の尊厳は認めない。ヒト同士の交配であれば数ヶ月後に赤ちゃんとなってこの世に誕生していたかも知れない卵子。細胞のひとつでしかない卵子に自身の意思は無いとはいえ、チンパンジー精子と掛け合わされる人間の卵子が私には不憫な気がしてならないのです。勿論チンパンジー精子でありながらチンパンジーの子になれない精子も。
卵子は細胞のひとつ。月経で私も体外に排出しています。卵子に命の尊厳を認めるのであれば私もそれを毎月踏みにじっている事になり、男性のマスターベーションは大量殺人になります。受精卵になれず無為に流されていく卵子を前に、私はいつから「私」だったのだろうかと考えてしまいました。

私にとって我が子は妊娠5週の胎芽(たいが)の頃から「私の子」という認識でした。この頃は実際にはタツノオトシゴのような形であっても自分からはそのような形である事は見えないので「ヒトの子」です。何より私の胎内に宿っているのですから「私の子」である事は確実です。
ヒトとチンパンジーとの掛け合わせによって誕生する生命がどのような細胞分裂を遂げるのか確かに興味はあります。ただこの実験は、ヒトとなるはずだった卵子チンパンジーとなるはずだった精子の尊厳を無視しているように思えてならないのです。

生命は受精卵がどこまで細胞分裂をした時から「生命」なのか。
私たちの意思はどの段階から宿るのか。
堕胎される際に胎児は子宮内で手術器具から逃げるそうです。眉唾物かも知れませんが、胎内記憶がある子どももいるそうです。ならば胎児は堕胎手術の時に痛みや恐怖も感じているのかも知れません。ではそれはどの段階からなのか。
望まぬ妊娠をした女性の人権を守るために母体保護法があり、妊娠21週6日まで堕胎が認められています。胎児に人権は認められず、母体の人権が優先されます。しかし妊娠21週よりも前に超未熟児として出産されても生存する子どももいます。
堕胎に否定的な見方をしてしまうのは私が望む妊娠しかしてこなかったからでしかなく、必要があれば私も中絶手術を受けるでしょう。ヒトとチンパンジーとの間の子は「産まれてはならない生命」として堕胎するのが当然なのかも知れません。でもその生命は事故で受精したのではなく、卵子の主に(母と呼んではいけない気がする)望まれて受精卵になったものなのです。

もし記事の実験が実施されたならば、チンパンジー精子とヒトの卵子からなる受精卵は女子学生の胎内で何を思うのか。
この実験は人間のどうしようもないエゴで、こうした知的好奇心が医療を進歩させてきたのだとは理解しています。
女子学生がこの実験に自分の卵子と自分の子宮を使うのならば誰にも止める権利はないのかも知れません。
しかしそれでも、ヒトになれずに終わる卵子を思うと心に引っ掛かるものがあるのです。

…読むタイミングを間違えた記事でした。