xharukoの日記

妊娠、出産、育児の中で思った事をつれづれ書きます

思い出がいっぱい

幼稚園児の上の子がいつの間にか平仮名を書けるようになり、毎日幼稚園でお手紙を書いてきては私たち夫婦にプレゼントしてくれるようになりました。
普段は「かあさん」呼びなのに手紙では「まま」だったのは「あ」が難しく書けなかった為でしたが、その「あ」もいつしか習得したようで、しっかりと「かあさん」と書いてくるようになりました。
イラストも何の動物を描いたのか私が判別つくようになり、プリキュアすらも、どのプリキュアなのか特徴を描き分けてくるようになりました。
工作も徐々に技巧を凝らすようになり、写真に撮影して記録していますが、「これは」と思った作品は保管しています。
他人から見れば汚い文字らしき記号と落書きが書かれた紙とガラクタですが、多くの親がそれらを子どもの成長の記録として捨てるのが忍びないと思っているかと思います。

もう少し子どもが成長すれば処分する踏ん切りがつくのかと思うのですが、我が子が巣だった後に育児中の思い出に私が耽れるよう、それまで大切に保管しておきたい気持ちがあります。
いっそドラえもんのタイムマシンを使って未来の自分の元へ運べたなら未来の自分も嬉しいし、その時には家の中にコレクションしておけるスペースもあるだろうのに、と思うと実に口惜しい。
これから子どもが成長するにつれあれこれ物が増え、作品も増えていけば保管する場所がなくなってしまうのは明白です。大切なのは常に現在と未来で、過去の作品は処分していくしか今後の作品の保管場所の確保は出来ません。何を捨て、何を保管するかはこれからはより厳しく吟味していく必要があるでしょう。

こんな事を考えてしまうのは下記の記事を読んだ為です。


60代の後悔"不要品は捨てればよかった"

https://president.jp/articles/-/25868?display=b

若い頃に戻ってやり直したい……。そんな後悔をしないために、どんな準備が必要か。「プレジデント」(2018年1月1日号)では、60歳以上の男性120人に、健康や家計など6つのジャンルの「後悔」についてアンケート調査。その結果を識者に考察してもらった。第6回は「終活」について――。

この記事によると「40代は終活を始める絶好のタイミング」なのだそうです。ならばアラフォーの私にも他人事ではありません。何故40代が終活スタートのタイミングなのかというと、「自分の親世代が本格的な終活に入るから」だそうです。親と一緒に終活をすることで、自分の終活がスムーズにいくのだそう。
記事では60歳以上の男性に後悔している事を訊いたそうです。その栄えある第一位は「不要な物を片付けておくべきだった」で、回答者の3割がそう答えたそうです。

彼らの指す「不要な物」とは何だったのでしょうか。子どもが拙い字で書いてきた手紙も、崩れそうな工作も、サイズアウトで着られなくなった幼児服も、言ってしまえば「不要な物」です。小売業界では在庫こそが諸悪の根源だと聞きます。動いていかない在庫を保管する為に限りある場所を逼迫させる事は無駄の極致だと。
家庭に置き換えれば我が子の初めての靴、サイズ70の肌着、よく使ったよだれかけ等をタンスの肥やしにしておくよりも、その場所にこれから着る新しい服を入れるべきだという事ですが、これがなかなか捨てられません。
どの服にも様々な思い出があり、またベビー服はともかく幼児服は着ていられる期間が短いせいもあり綺麗過ぎて、孫が産まれたら着せられるのでは、親戚が妊娠したらお下がりに、などと勿体ない精神が働いてしまうのです。
私見ですが、女性の所持品が男性よりも多い傾向にあるのは、女性は「こんな事もあろうかと」が好きだからではないかと思うのです。何かあった時に活躍するかも知れないと絆創膏や裁縫道具を持ち歩いている人は女性の方が多いでしょう。修学旅行の時にやたらと女子の荷物が多いのには、「使う機会があるかも知れない」という理由から選ばれた様々なアイテムがカバンの中に潜んでいる為です。

娘がいる私は、娘が将来幸せな妊娠をした時に「あなたが小さかった頃にはねぇ」と娘が着ていた服や使った育児グッズを広げて育児アドバイスという名の思い出語りをする妄想が止まりません。息子のお嫁さんにはお嫁さんのご母堂がされる事だと思っているので、娘にだけ行う妄想です。
子供服には流行による形状の変化が大人の服よりもあまり見られない為、二十年は経過している私の従兄弟たちが着ていた服やおもちゃが娘を産んだ時にお下がりで回ってきたように、まだまだ使えそうなものばかりで勿体ない。そこで娘が子連れで里帰り中に子どもの衣服が汚れて替えがない、急な天候変化で孫が寒がって娘がピンチの時に「こんな事もあろうかと」と娘自身が着ていた服を颯爽と出してみたいのです。私が選び、娘の小さかった頃の思い出がつまった服を孫が着る姿が見てみたい。
(娘がしっかり者に育てばきっと子どもの着替えやアウターもきちんと持ってくるとは思うのですが)
しかしそれらは十数年は未来の話で、せっかく娘の服を保管していても綺麗に保存できていなければ何の意味もありません。そしてそれまでの期間に「保管しておきたいもの」は服以外にもどんどん蓄積されていくのです。

断捨離が少し前に流行しました。不要品を捨てすっきりとした生活に憧れはしますが、私には落ち着けないかも知れません。過去があるから現在がある。現在は過去の積み重ねにより成立している。ふとした拍子に過去の出来事を思い出せる記憶の縁(よすが)はいつも手元にあって欲しいのです。
子どもが反抗期に入った時に挫けそうな親の心を支えるのは、子どもが可愛らしかった頃の記憶だと聞いた事があります。拙い文字で書かれた「とおさん、かあさん、だいすき」の手紙は将来の私たち(主に夫)を励ましてくれるかも知れません。

孫が産まれれば「不要品」に対し新しい一歩が踏み出せるのかも知れません。
しかし今はまだ、子どもは2人と決めている私の気が万が一変わり3人目を妊娠したならばと考えると、下の子が二歳になるというのにベビー服の処分に踏み切れません。何よりどの品にも思い出が溢れているのです。
私が死んだ暁にはどのような品も持って逝けないので私には不要品になりますが、遺品整理をしてくれるであろう子どもや孫にとっては「不要品」が新たな話のタネを提供できるかも知れません。その人が生きた証はその人が遺した物にも残ります。立つ鳥後を濁さずの精神も良いですが、遺される人にとっては何かが残っていた方が供養のしがいもあるでしょう。
ならば私が生きた証は、子どもたちの成長の記録かなと思うのです。私自身の何かよりも、子どもたちの作品や好きだったアニメのキャラクターグッズを保管している事の方が、より「私が生きた証」になるような気がするのです。

以上、「HUGっと!プリキュア」が終わろうとしている時期に「キラキラ プリキュア アラモード」のグッズを購入した言い訳でした。