xharukoの日記

妊娠、出産、育児の中で思った事をつれづれ書きます

中二病の頃の私か

中学の英語の授業で登場した一文、
「I was born.」
以前にも書いたような気がしますが、この「私は生まれた」と訳す文は受動態なので、直訳すると「私は生まれさせられた」となります。

吉野弘さんの散文詩も有名です。
父親と歩いている時に妊婦を見かけ、英語の文法が受動態だった事を思い出し〈生まれる〉ということは〈受身〉である、人間は自分の意志で生まれるのではないのだねと得意気に父に話すと、昆虫のカゲロウの話を出されるという内容です。

生命は自らの意志で生まれるのではありません。卵子が受精卵になり胎児になり産声をあげるまでの、どの段階から意識があるのかは定かではありませんが、少なくとも男性が精子を放つ行為や女性の排卵日は、後に子どもになる何者かから指示されているとは思えません。
「子どもは親を選んで生まれてくる」といった考え方もあります。子どもに胎内記憶を尋ねると「空の上からお母さんを見つけて、優しそうだなと思ったら吸い込まれた」という話を子どもがしてきたという話もあるようですが、では親からの虐待により亡くなった子は相手の本質が見えずに親を選んでしまったダメンズ(駄目な男性)好きの女性のようなものになってしまい、虐待死も自己責任になってしまいます。

なぜ自分は生まれさせられたのか。
誰が産んでくれと頼んだのか。
こうした問いはいわゆる中二病の時に多くの人が抱くものではないかと思います。かくいう私も中学生の時にこうした考えに囚われました。
仮に私が空の上から出生順番を待っている時に他の誰かに追い抜かされ、母の胎内に宿る順番が九番目や十番目になっていたならば、これ以上の子どもは育てられないと産んで貰えていなかったのではないか。
私が「私」として産まれる事はさほど望まれておらず、たまたま出生順番が早かっただけで私は産まれて来れたのではないか。ならば両親の元に生まれる子どもは、「私」でなくても良かったのではないだろうかと。

そんな事を言われたところで後戻りは出来ないのだから、考えても無意味だと気付き私は「自分はなぜ生まれされられたのか」という問いを卒業しましたが、しかし卒業していないどころか、両親を告訴した人がいるとの記事を見つけました。


「本人の同意なしになぜ生んだ?」インドの男性が両親を告訴へ
https://m.huffingtonpost.jp/2019/02/07/antinatalist-sue-parents_a_23663582/?utm_hp_ref=jp-homepage&ncid=other_homepage_tiwdkz83gze&utm_campaign=mw_entry_recirc

「同意なしに自分を生んだ」という理由で、インド・ムンバイに住む27歳の男性が両親を告訴しようとしている。インドのテレビ局NDTVなどが報じた。

不合理にも思える理由で両親を訴えようとしているのは、ラファエル・サミュエルさん。サミュエルさんは反出生主義者で「苦しみや悲しみばかりの世の中に、子供を産むことは倫理的に間違っている」と信じているそうだ。

「誰が産んでくれなんて頼んだよ!」
という言葉を実際に口にする人は思春期に荒れている人くらいのようなイメージですが、まさか裁判まで起こそうとする人がいるとは驚きました。
「生きている事」自体が原罪であるとの宗教があったような気がしますし、収入が低く子どもに十分な資金を投入できない状態で苦痛だけの世界に無責任に子どもを産み落とす事を非難するコメントはインターネット上で目にした事があります。
確かに私は我が子に頼まれて出産したわけではなく、私たち夫婦が欲しかったからこそ我が子二人を作ったのです。この行為は紛れもなく親のエゴイズムでしょう。

吉野弘さんの散文詩「I was born」では
〈生まれる〉ということが〈受身〉であると諒解した「僕」は、「正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね」と文法上の発見を無邪気に父親に話しますが、そこで父からカゲロウの話を出されます。

  ----蜉蝣という虫はね。
  生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが
  それなら一体
  何の為に世の中へ出てくるのかと
  そんな事がひどく気になった頃があってね----

カゲロウは二、三日しか生きられない昆虫です。メスは口は退化しており、ほっそりとした体の中身は卵だけ。
「それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ」
そして「僕」は母が自分を産んですぐに亡くなった事を父から聞かされ、カゲロウの卵のように、母の胸の方まで息苦しく塞いでいた胎児の自分の姿をイメージするのでした。

なぜ生まれさせられたのかと問われれば、答えはきっと「生きる為」なのだろうと思います。生命とは本来、次の生命を繋ぐ為に生まれてくるのです。
「産んでくれなんて頼んでいない」という言葉の裏には、自分の現状に自身が満足していない事と、自分が存在していても良い、明確な理由を欲している事が透けて見えます。

なるしまゆりさんの「少年魔法士」(ウィングス・コミックス)という作品に

  誰の赦しも いらない
  神様の赦しも いらない
  何の為に生まれたのか
  わからないけど
  そんなの俺だけじゃないだろ
  生まれたんだから
  結局 生きる為だろう
  ……ただ俺は
  自分の 赦しがなければ
  生きられない

というモノローグがあります。
私は自分が生きる事を赦しました。
「だってもう生きてるし」と結果論で赦さざるを得なかったのではなく、自分なりの解を得た上で、私は私が生きる事を納得しました。
「自分の同意なしに苦しみや悲しみばかりの世の中に自分を生んだ」と両親を提訴したインドの男性の裁判結果が気になるところですが、彼もまた自身の存在を赦す事が出来れば良いと願います。

もし我が子がこの問いにつまづいた時に親としての私が出来る事はきっと、見守る事だけなのだろうと思います。
それはこの問いの解は誰の言葉でもなく、自分の言葉で見つけなければ腑に落ちないものだと思うからです。