xharukoの日記

妊娠、出産、育児の中で思った事をつれづれ書きます

余生こそがメイン

子どもの頃に道路に転がる蝉を見て、何年も土の中で過ごしていたのに、成虫になったら僅か七日で死ぬなんてどんな気持ちなのだろうかと考えていました。
成虫になるのは卵を遺すためで、七日の間にパートナーを見つけるべくセミのオスは激しく鳴く。カゲロウなんて一日の間に羽化し交尾し卵を産んで死んでしまいます。つまり生とは遺伝子を残す為にあるもので、その目的を果たせば生物の生きる理由は完了するのです。
ならば人間も同じで、子どもを産み終えたならば私の生物としての役割は完了し、後は惰性で生きるのだろうな、などと思っていた時期がありました。
それと少し似た感覚の方がいらっしゃいました。

「やりたくないお笑いの詰め合わせ」でブレイク。鳥居みゆきが見据える“余生のキャリア”
https://r25.jp/article/674750709480290535

エンタの神様』などのお笑い番組で、「ヒットエンド、ラ~ン」と耳に残るネタを披露していた鳥居みゆきさん。

(中略)

鳥居さん:
私、子どものころからずっと「35歳で死ぬ」と思ってたんです。

35歳で死ぬつもりで活動してたんで、それ以降は私にとっては余生なんですよ。

35歳で死ぬ、というのは現代では流石に早いだろうとは思いますが、子どもはこの子で最後だと考えていた第二子を産み終えた後の今の人生は、私にとっても「余生」のような感覚です。
これから先は子どもを産まないつもりでいるのならば、私の生物としての役割は既に終わっている。
しかし、その意識を覆したのはNHKのアニメ「カードキャプターさくら」でした。

カードキャプターさくら」は現在放送中のアニメですが、1998年にも前のシリーズ(クロウカード編、さくらカード編)がNHKでアニメ化されています。2000年に原作漫画が最終話を迎えましたが、その後16年の歳月を経て新シリーズ(クリアカード編)が始まり、キャストもそのままにNHKでも新シリーズがアニメ化され、現在放送中です(半年ほど前の内容の再放送ですが、今回はその続きも放送するのでしょうか?)。その為、子育て世代の多くの人が子どもの時分にリアルタイムで観ていたアニメの続編を我が子と一緒に今ご覧になっているかと思います。
昨年あたりにアニメ再始動にあたって初期のシリーズ(クロウカード編とさくらカード編)が地上波で再放送された時に私は子どもと一緒に観たのですが、リアルタイムで観ていた時には気にもならなかった設定に心がざわつきました。

主人公の母親は、主人公が小さい頃に亡くなっているのです。
「お母さんは私が3才の時に亡くなってて、よく覚えていないの」
確か、作中にそのような台詞があったかと思います。その台詞に子どもの隣で観ていた私は愕然としました。

こんなに毎日一緒にいるのに、いま私が死んだらこの子たちの記憶に私は残らないのだと。

言われてみれば自身の最も古い記憶は4才のもので、それもたった1つの場面だけ。その後は5才に記憶が飛びます。それ以外の記憶は写真を見たり、人から聞いた話で脳内補完され、自分の視点で見たものの記憶はありません。ならば3才までの出来事を主人公が覚えていないのは当然なのに、「カードキャプターさくら」で主人公が口にするまで、人には3才以下の記憶は残らない事を完全に私は失念していました。

子どもを産み、それで生物としての役割を終えたからと死ぬのならば、いま私が死んだ場合、上の子の記憶にはおぼろげにしか私の姿や声は残らず、下の子は私の事を写真や動画でしか知らないままに育つのだと気が付いてしまったのです。

こんなにも毎日の食事に悩み、一人で乳幼児二人を風呂に入れ、子どもの体調が悪い時には夜通し看病に対応し、下の子は卒乳に至らないため未だに寝る前や朝方の授乳に応じているというのに、この私の頑張りを我が子たちは覚えていられないのです。
そう思うと子どもを産んで生物としての役割を果たしたからといって死んだのでは何だか悔しくて、自分が死ぬのは子どもが私を覚えていられるようになってからにしなければと改めて誓ったのです。

人間は他の生物と異なり一人前になるまでにかなりの時間を要します。昆虫のように卵を産んでおいたら勝手に孵化して育つ訳でもなく、草食動物のように産まれて数時間で立てるようになる訳でもありません。生物によって時間の感覚が異なるとはいえ、人間の子どもが一人で生きていけるまでに育つのには時間が必要です。ならば少なくとも子どもの記憶に残る為には、あと数年は私は生きなければなりません。
また人間を社会全体で1つの生き物として捉えるのであれば、やはり出産して数年程度では死ぬわけには行きません。仕事をし社会を回し、老いてからは人生の終着点を若者に見せて、より良く生きるためにはどのようにすれば良いかを後続に学習させなければなりません。人間は、子どもを産んでから先の「余生」の方がずっと長いのです。

私は実母の存在のありがたみは、子どもを産んだ後に最も実感しました。里帰り出産の為に臨月で実家に戻った時の、自宅では味わえないあの安心感。二人目の子をを産む時に、上の子の事を任せられる頼もしさ。
子ども、特に娘にとって母親とは、自分が出産する時に最も必要な存在なのではないでしょうか。

鳥居みゆきさんは「35才以降は余生」とインタビューで答えていらっしゃいました。私も最後の子を産んだ後の人生は余生だと考えていた時期がありました。しかし私が主役になるのは、もしかしたら孫が生まれてからなのかも知れません。

今では、出来れば自分が死ぬのは娘が出産はこの子で最後と決めた末の子(つまり私の孫)が幼稚園に入園するのを見届けてからが良いかなと思っています。しかし小学生の放課後の事を考えると、それでもまだまだ祖母の手がなくなるのは早いでしょう。近距離に住んでいれば娘の子も息子の子も学童に入れなかった時には預かってやりたいですし、私のお葬式の事を考えると、孫の全員が初めて訪れた施設のトイレを一人で探しに行ける年齢までは私は生きていなければ、娘や息子のお嫁さんが大変かも知れません。

近距離に娘夫婦や息子夫婦が住む設定で考えていくと、子ども世帯から孫育ての手伝いを要請されたならば、いま私が実母に手伝って貰っている程度には手を貸してやりたいです(まずは良好な関係である事が大前提ですが)。
遠方に住むのならば、孫たちが学校の長期休みに過ごす別荘として受け入れてやりたいものです。
他にも、息子が結婚式をする時や子どもが生まれる時には、いかにお嫁さんの気持ちに添う事が大切かを教え込みたい。考えれば考える程、死ぬタイミングは後ろになっていきます。やはり孫全員が成人してからの方が安心してこの世を離れられるでしょうか。
いかに健康でフットワークが軽く、ゆとりある資金がある状態で孫育ての時期を迎えるかを考えると、自身の下の子を幼稚園に入園させてから以降の私は、来るべき時の為に色々と忙しくなるかも知れません。
子孫を遺した後の生物は「余生」を送るのだとするならば、もしかしたら私の人生は余生こそがメインなのかも知れません。



理想の死に方は「ドラえもん」の のび太のおばあちゃんです。孫に良い記憶だけを残してこの世を去りたいものです。