xharukoの日記

妊娠、出産、育児の中で思った事をつれづれ書きます

自分が自分でいる時間

「クスリとしてほっこり」と題された下記の記事に、私は“ほっこり”どころか、もやもやを抱え込んでしまいました。

「保育園の先生になりたい」園児、その理由がショッキング 保育園での日常を描いた漫画にクスリとしてほっこり
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/spv/1912/17/news017.html


単行本『実録 保育士でこ先生』が発売される程のTwitter人気シリーズ、でこ先生。更新される度に私も楽しみなのですが、今回紹介されていた漫画には何とも言い様の無い感情がよぎりました。

「大きくなったらなりたいものがあるの」という男の子。「仮面ライダー?」と聞く先生に「でこ先生(でこぽん吾郎さん)みたいな保育園の先生になりたい!」と元気よく答えます。感動したでこぽん吾郎さんがその理由を聞くと、男の子はキラキラした目で「毎日みんなと遊べるし…働かなくていい!」。

言われたでこ先生は

(・・・?)

と言葉にならない衝撃を受けていましたが、私は

(・・・!)

と、何か腑に落ちました。
保育園児にとって先生は「遊んでくれる相手」であり、「遊んでいる」のだから、それは「仕事」ではないのです。
また、この子が保育園に通っているという事は、きっと両親ともに就業している方なのでしょう。従って、この子にとって「働く」とは、自分を保育園に預けてから親がどこか別の場所に行く事なので、保育園は「働く所」ではないのです。
これは専業主婦は働いていない、と言われているのと根は同じなのではないでしょうか。

子どもたちに危険はないか常に気を配り、排泄や着替えなど生活の基本を教え、園によってはひらがなや時計の読み方を教え、歌やダンス、工作で身体の動かし方や情緒面を育み、園児同士のトラブルを諫めて人間関係の初歩を教えてくれる、保育園や幼稚園の先生。子どもたちと毎日笑顔で接し、子どもたちが帰宅した後はイラストを描き、壁面飾りを作るといった姿は遊んでいるようで、「労働は原罪に与えた罰」なのに、とても仕事をしているようには思えない。
同じように、自分がくつろぐ場所である自宅にずっといる専業主婦は、いつも自宅にいるのだから楽に違いないと考えている人は少なくないのではないかと思います。実際に私は夫から「俺だって専業主婦やりたいよ」と言われた事があります。そのくせ私が夫に子どもを任せて一人で外出し、帰宅すると、子どもは一人遊びをしており夫はパソコン操作をしていた事がありました。その姿から、夫にとって日中の私は子どもを一人で遊ばせるかテレビを見させるかしていて、私は自分の好きな事を悠々自適にしているイメージなのだろうなと感じました。
子どもが一人で遊んでいても大丈夫なのは危険がないように場所を整えておいているからだという事や、子どもが私といる時は一人遊びなど殆どしてくれず、何かと母さん母さんとまとわりついてくるので、自分の娯楽など何一つ出来ていない姿を知らない夫にとって、私の一日はさぞかし楽に思えているのだろうと思います。
妻が自分の子どもと自宅で過ごす事の、何が苦痛なのかと言い出す世の男性を取り上げたネット記事はこれまでに多く読んできました。確かに子どものお世話は楽しい所もあります。しかし、こちらの思う通りにならない事の方が実は多く、その苛立ちは澱みのように溜まり、心を重くし疲れさせるのです。
赤ちゃんのお世話は、失敗すれば赤ちゃんの健康を損ねます。専業主婦で赤ちゃんと自宅にいるママさんは自宅で楽しく遊んでいる訳ではなく、赤ちゃんの生命を守る責任に押し潰されそうになっている事もあるのです。ママさんの多くはトイレにも思うように行けず自分の事など二の次になるなど、多くの男性は知る由もないのでしょう。

下記の記事に、「家事育児はマイナスをゼロにしていく大変さがあり、仕事はゼロからプラスにしていく大変さがある」という一文がありました。


「専業主婦はいいよな」夫の言葉にイライラ…プチモラハラ夫、どうすれば?
https://trilltrill.jp/articles/1316120

例えば、家事は散らかった家をきれいに掃除し、汚れたお皿や服を洗い、元の状態に戻す作業が多く、ゴールや終わりがありません。また、明日も同じ作業の繰り返しです。一方、仕事はゴールが設定され、期日までにそこへ到達しなければいけません。

つまり、家事育児はマイナスをゼロにしていく大変さがあり、仕事はゼロからプラスにしていく大変さがあるといえるでしょう。

夫が帰宅した時に、何でもない自宅の日常が待っていたとすれば、そこには子どもに散らかされたマイナスの状態から、元通りに整頓されゼロに戻された、見えない仕事があったのです。

近頃は「名もなき家事」という言葉が注目され、それらをリストアップする事で家事の膨大さを可視化し、夫に妻の大変さを理解して貰おうとする動きがあります。その影響もあるのか、今日の私は何をしていたのか夫は訊いてくるようになり、聞き終わった後は「大変だったんだね」と労ってくれるようになりました。
おそらく先日、育児のマイナスの場面に直面した影響もあるのだろうと思います。

3才になった下の子は排泄がしたくなったら私にそれを教え、一緒にトイレに行き、私が補助便座を設置したトイレに座らせてやると用を足せるようになりました。大人用の洋式便器は下の子にはまだ高く、自力では登れません。踏み台を用意しても、そもそも切羽詰まった状態で排泄を訴える為、自力で服を脱いでは間に合わないので、大人の手を要します。なので下の子が「おしっこ/うんち」と言えば、私がトイレ介助をするのが常でした。
ある日、お風呂の掃除中で下の子が視認できる範囲に私がいなかった時に、下の子が便意を催しました。そこに彼の姉と父、私以外の家族はいましたが、母である私の姿はない。意を決した下の子は、リビングのその場で排泄しようとしたのです。
下の子は便秘気味なので、便意を催しても排便には少々時間がかかります。ふん、と力んだ所を休日にも関わらずパソコンで作業をしていた夫が気が付き、「こいつ、ここでウンチしようとしてる!」と風呂場にいる私に聞こえるように叫びました。なぜ気がついたかと言うと、オムツのころの息子のウンチスタイルがそうだったからで、それは夫も何度も目撃していたからです。
慌てて私が下の子をトイレに連れて行き、無事下着が汚れる事なく息子はトイレで排便を済ませました。
「ウンチ上手に出来たね、パンツ汚れてないよ」と褒めた途端、その顔はみるみる涙に濡れていきました。
下の子はトイレで排泄が出来るようになってから既に半年が経っていました。本人も排泄はトイレでするものだと理解していると思います。なのでリビングで排泄しようとしたのは、下の子にとっても屈辱的な決断だったのでしょう。
「父さん一緒にいたでしょ? 母さんだけじゃなくて、父さんに『ウンチ』って言ってもトイレに連れてきて貰えたんだよ」と私が言うと涙を流しながら下の子は頷きました。
「…父さんには『ウンチ』って言えなかったの?」と更に訊くと、下の子は声をあげて泣き出してしまいました。
便器に座らせたままひとしきり泣かせた後で「母さんがいなくて、父さんしかいなくて、でも父さんは手伝ってくれないと思ったから、その場で(ウンチを)するしかないと思ったの?」とゆっくり訊くと、文節の度に下の子は頷き、最後は口を歪ませながら何度も頷きました。
その様子と、シャワーの蛇口を止める暇もなく風呂掃除から私が手を離したせいでびしょ濡れになった脱衣所を見て、夫は悟ったのかも知れません。自宅が代わり映えなく、子どもたちが普通に過ごしていられる背景には、私が自分の事を後回しにしてでも整えていたのだという事を。

先日、素敵な男性の記事を見つけました。


家事育児に積極的な夫 真意を聞いた妻に返した意外な答えが心温まる漫画 「優しい世界…」「キュンキュンしました」
https://hint-pot.jp/archives/23090

 ご主人はテキパキと効率よく家事育児をこなしてくれるため、ある日チッチママさんは少々心配になり、負担になっていないか、不平等になっているのではないかと、ご主人に確認します。

 するとご主人は、さも当たり前といった様子で、心温まる返事をくれました。

「俺はこうして『ゆっくり座ってくつろぐ時間』が平等にあるかどうかを基準にしているんだけど……」

自分よりも効率良く家事育児をしてくれている夫に、夫の方に仕事も家事育児も比率が片寄ってはいないか心配になったチッチママさん。しかし彼女の夫は「家事育児の部分」ではなく、「座ってくつろぐ時間」が夫婦に平等にあるかどうかを基準に考えて行動していたというのです。

人間の能力は平等ではありません。従って、余裕のある方が多く分担する事に対して何も不満はない。チッチママさんの夫君はそういう考えの男性だったのかも知れません。あるいはチッチママさんがいつも一生懸命なので、応援したいと思って自然に行動してしまうのかも知れません。

家事についての考え方は人によって異なると思います。「名もなき家事」を名称化する事によって、こんな事にも時間をとられていたのかと、普段家事をしてこなかった人は驚いたかも知れません。目に見える作業だけを見て分担するのではなく、「座ってくつろぐ時間」が相手と自分にはどれだけあるかを比較するという考え方はとても素晴らしいと思いました。

私の夫は帰宅してもパソコンから離れない程に激務の仕事をしています。だからこそ夫に家事育児をやって貰おうという気は私にはあまりありませんが、私にも都合はあるので、その都合に合わせて夫に動いて欲しいと思う事はしばしばあります。
我が家では先日、私と夫とで認識に齟齬があるものが一つ発覚しました。

風呂は一日の疲れを癒し、くつろぐ場所なのだから、自分が入りたいタイミングで入りたいと夫が主張した時に、子どもを早く寝かせたいし、水道光熱費が勿体ないので続けざまに入浴して欲しい、何より風呂が一日の家事の中で一番の難局なのだから早く済ませたい(最後の人があがったらカビ予防で壁や床を拭きあげる)、と私が主張した時に、夫はハトが豆鉄砲をくらったような顔をしました。
夫にとって、あがったら終わりの風呂は、私にとっては終わりではないのです。夫や子どもたちの着替えを用意し、子どもたちのスキンケアをし、着替えを手伝ってやり、ドライヤーで髪を乾かしてやるのも「風呂」、靴下のまま風呂場に入れるまでに拭き上げを終えるのも「風呂」なのです。お湯から出た後には様々な作業が待ち受けているので、やる気があるうちに終えてしまいたいのです。
しかし夫の主張も理解できます。例えばメールの作成中に風呂に入れと言われても、手を止めているのは文章の推敲中だからだし、この相手へのメールを送信し、区切りをつけてから入浴したいのです。その間にも夫へはメールや電話などで報告が入る時があり、やはりその対応も風呂の前に終えてしまいたくなるので、ずるずると風呂に入る時間が後ろにずれ込み、お湯が冷めてしまっていただけなのです。
互いの「風呂」のイメージがようやく理解できたので、私は夫がなかなか入浴しに行ってくれない苛立ちを、夫は私が急かす事で感じていた反発を互いに低減できたように思います。

仕事には目標が定められ、それに向かって現在どれくらい進んでいるかどうかが分かりやすいのに対し、家事は散らかった物を元に戻したり、汚れた物を綺麗にしたりする事が多いので、仕事を終えて帰宅した夫からすれば何かが進んだようには見えません。だからこそ専業主婦は楽なように見え、働いていないように見られます。機嫌の良い状態の子どもしか知らない人にとっては、育児の何が大変なのか理解も出来ないでしょう。

「自分」に使える時間は一日にどれだけあるのか。そういう目線で物事を見れば、保育園や幼稚園の先生は何一つ遊んではいないし、家事育児もやはり大変なのです。
家事育児を夫婦で分担するにしても、目に見える部分だけで考えるのではなく、相手にはどれだけ「自分の時間」があるかも加味して考えられれば良い夫婦関係を維持できるのではないでしょうか。




私が子どもと布団でごろごろ横になりながらスマホを見ているのも好きでしている訳ではなく、本当は今年10月に発売された小説が読みたいのです。子どもを寝せる為に暗くした部屋では本が読めないので、仕方なしにスマホを操作しているだけなのです。
十数年待った十二国記シリーズの新刊、しかも舞台は戴。だというのに未だ読み終えていないのです…