xharukoの日記

妊娠、出産、育児の中で思った事をつれづれ書きます

学校の機能

「鈴木入間(すずきいるま)14才。
彼はある日突然、悪魔サリバンの孫になった。サリバンは入間をでっろでろに甘やかし、学校にも通わせてくれる事になったのである」

これはEテレで現在第2シリーズが(再)放送中のアニメ「魔入りました!入間くん」の、第1シリーズ冒頭のナレーションです。
第2シリーズが最初に放送されていた2021年春夏頃にはタイミングが合えば観る、程度の興味しか持たなかった我が家の上の子が、何故か突然今回の再放送で「入間くん」にハマったので、第1シリーズのDVDをレンタルして視聴しました。
そのDVDを観ながら上の子が首をかしげます。
「でろでろに甘やかしてるって言っているのに、何で入間くんを学校に行かせるんだろう」

小学生である上の子は、はっきり言えば学校が嫌いです。登校したくなくて泣きながら起床してくる日が月に何日もあり、玄関を出る時まで懸命に涙をぬぐっている場面も少なくありません。宿題はきちんとするし、テストは毎回ほぼ満点ですが、授業は嫌い。日直の日と授業で発表のある日、そして体育のある日も大嫌い。何よりも給食が苦痛でならないそうで、時折ある給食が無い日は目覚めもスムーズで、足取り軽やかに登校します。
給食は、小学生の頃の私がかつて目撃した「配膳された給食を完食するまでは掃除の時間だろうと埃の舞う中で食べさせ続ける」という指導は一切なく、時間が来て、それまで手付かずだった料理も一口さえ挑戦すれば残す事が出来るようになっていると上の子は話します。入学前には文書で、入学してからは担任教師との二者面談でも我が子の食の細さを相談し、残すのは本人も心苦しいからと少なく配膳してもらえるよう依頼しましたが、今は身体を作る時期なので、少ない給食に身体が慣れてしまうといけないからと、少食な児童にも一人前の分量がひとまず配膳され(配膳する当番児童の負担軽減もあるのかも知れません)、アレルゲンの物以外はどの料理も頑張って一口だけは食べるよう指導する事になっているのだそうです。一口でも食べた経験があれば、嫌いな食材や料理も、ある日突然食べられるようになる事もあるから、という事が理由のようです。
ひとかじり食べさえすれば残せると我が子も分かってはいるのですが、それでも完食できないせいか、給食は嫌で嫌で堪らないそうです。だからこそ、我が家の上の子は給食のある日の学校が嫌いなのです。

2022年2月現在、我が家の住んでいる県では新型コロナまん延防止等重点措置の適用により、下の子の幼稚園が感染症対策の為の家庭保育協力期間となっており、下の子が幼稚園に行かない為、ますます上の子は登校が億劫になっています。だからこそ、作中であれだけ入間を可愛がっておきながら入間を学校に行かせる「おじいちゃん」の行動が上の子は分からないと言います。
学校になんか行かせず、可愛い「孫」の入間と毎日一緒に遊んで、昼ごはんも自宅で一緒に食べれば良いのに、と。

「魔入りました!入間くん」の主人公、鈴木入間は、「奔放過ぎる両親に幼児期より振り回された挙句、悪魔に売り飛ばされた」、あるいは「アホな両親のせいで魔界の大悪魔・サリバンの孫になってしまう!」などと、コメディ作品である事でネタの一つとしてさらりと描かれはしていますが、
1才でマグロ漁のエサ役
森で入間が熊に襲われても、近くにいるのに助けてくれない両親など
「圧倒的危機回避能力」を身に付けざるを得なかった生育環境
幼児の頃からお手伝いとしてでは無さそうなレベルで家の掃除をさせられる
学校には殆ど行けず、部活動も経験が無い
夏休みはバイトオンリーで遊びに行くなどもってのほか
作中で14才だと明言されておきながらマグロ漁船で働いている
ろくな食事にありつけなかったので「食べられる時に食べる」痩せの大食い
雑草を食べていた事があった
入間を悪魔に売り、金銭を得る両親
如何なる状況でも絶望しない(絶望を乗り越える心の強さ、絶望からすぐさま立ち直る鋼の精神、ではなく、そもそも絶望する事を「知らない」)
など、日本の普通の子どもではあり得ない環境で育ちました。
だからこそ、我が家の子どもたちが笑いながら観ている横で、入間が清潔でフカフカなベッドから起きて、魔界の家族に可愛がられて、作って貰った料理を好きなだけ食べて、学校で授業を受けて、クラスメイトに名前を呼ばれる作中の日常場面で私は嬉しくて泣いてしまいそうになるのです。
入間の「頼み事を断れない」性格も、断ったら嫌われる、自分を否定されるという恐怖が根底にあるからなのではと思って切なくなります。

さて、子どもを学校に通わせる理由とは何でしょうか。日本では憲法第26条第2項に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う」とあるように、保護者は「子どもに教育を受けさせる義務」が、また学校教育法では保護者は「子どもを就学させる義務」があると定められているので、小学校や中学校は義務教育と言われています。
保護者には元々、子どもへの「教育権」がありますが、保護者の指導能力にもばらつきがあるので、それを補完する為に学校があるのです。信念を持って学校に行かない人や、何らかの理由があって学校に行きたくても行けない状態になってしまっている人など各々に事情はあるかとは思うので、保護者が一定レベルの知識を子どもに習得させる事が出来るのであれば、私は「学校」とは現行の形式に拘らなくても良いのかも知れないと思う時があります。

このコロナ禍において教育の現場は様々な対策を立てる必要性が出てきました。上の子が学校から持ち帰る文書の中には、自宅にWi-Fiがあるかを問うアンケートがあった事も幾度かあります。感染のリスクを最小限に留め、かつ子どもに教育を施す為にリモート学習の準備が進められているのでしょう。我が子の小学校ではコロナ禍以前より児童一人にタブレットPCを校内使用に限り一台貸与していたらしいので、それを家庭に持ち帰ればリモート学習の機材は揃うのかも知れません。
しかし、「学校」には授業を行う、という機能以外もあるように思うのです。

学生時代の経験は貴重だ、とは、様々な場面で語られる事があります。そうは言うものの、思い返せば子ども時代の私も、学校はあまり好きではありませんでした。小学校は中学校に入るまでの準備をする場所で、中学は高校までの、そして高校とは、進学校でもあった為に、大学の予備校でしかないなと考えていたからです。数学の授業の度に、こんな知識を使う仕事に将来就く人になんて自分はならないのだから、覚えるだけ無駄だろうと思っていました。だからこそ、今ある地球の事を覚える地理は得意でした。
今でも腸(はらわた)が煮えくり返りそうな嫌な記憶があるのも学校での事で、私が「理不尽」という感覚を知ったのも学校の中でした。芸能界に興味は無くても、流行のものを知らないと話題についていけないからと、好きでもない歌を覚えるべくCDを買った事もあります。クラスは違えど、この子とは会話の波長が合うな、と私が気を使わないで安心して話が出来ていた女子が、とある国の正式な国名を知っているかと男子から質問された時に正しく答えた事を切っ掛けに何故かからかいの対象になってしまったらしく、ついには不登校になった時には、私の方が質問されて答えていたならば、私がイジメの対象になっていたのだろうかと戦慄しました。その子が可愛い子だったので、男子たちは彼女の気を引きたかっただけだったのかも知れないと今では思いますが、彼女が小学校高学年から中学まで不登校になりながらも、私と一緒の女子高校に入学した時には、住所だけで、どのような子もいっしょくたの学校に振り分けるシステムに疑問を抱きました(私が育った地域では私立の学校は高校しか無く、あっても公立に合格出来なかった子の為の学校、という見られ方だった)。
高校からは同級生の中に年上の人がいる事もありますが、同じ年齢の者だけが集められた空間など、社会には学校くらいしかありません。私は学校という「異様な」空間の中で、どのように無難にやり過ごすかを考えていたような子どもでしたが、それなりに楽しい事もありましたし、もう過ぎ去った事でもあるので、その経験が現在に繋がっているのだと思えばそう悪いものでもなかったかなとは思いますが、もしクラスの殆どが彼女のような子ばかりの学校に行けていたのであれば、彼女も私も、今とは違う性格になっていた可能性もあるのではないかと思う時があります。
自分の子どもが小学校に入学する際の保護者説明会では、子どもが幼稚園の頃の保護者会と雰囲気が異なる事に少々たじろいだ事があります。保育園(2号3号認定)は希望通りの園に入園できるかは自治体への申し込み数次第かも知れませんが、幼稚園(1号認定)は各々で自由に各園に申し込めるので、保護者の考え方が似ている家庭が集まるらしい、と聞いた事があります。ならば公立の小学校には様々な家庭の方が集まるが為に、幼稚園の頃と保護者会の雰囲気が変わるのは順当なのです。

集団には、それぞれ文化が形成されると思います。ある集団に属せば、その集団の一員として見合った考え方になっていくというものです。公立の小学校でも独自のルールがあり、我が家の子どもが通っている学校ではキャラクター物の文具は禁止ですが、子どもの幼稚園の同級生で、学区の為に就学先が分かれた子の小学校では、それが認められているそうです。そのような環境でそれぞれ育った子どもたちが中学校で一緒になった時には、最初は価値観がぶつかり合い、次第に馴染み、またその中学校独自の文化になっていくのだろうと思います。そしてもちろん高校でも同じような事が起こり、「その学校の児童、生徒らしさ」になっていくのだろうと思います。想像でしかありませんが、私立の小学校や中学校は、元々が似通った考え方の家庭の子が集うので、更にその文化は顕著なものになるのではないでしょうか。これをハビトゥス(habitus)と言うようです。
ハビトゥスとは、日常生活の認知、評価、行為を方向付ける性向(dispositions)のシステムを指すそうです。今野緒雪マリア様がみてる」(コバルト文庫)の作中の学園内では名字では呼び合わない、「ごきげんよう」が基本の挨拶である事に当初は馴染めなかった編入生や新入生がいつしかその学校の文化を当然のもの、良いものとして身に付けていくように、「学校」とは、そのハビトゥスを身を持って知る場なのではないかと思うのです。

「学校」とは、価値観を知る場所。様々な価値観の子どもたちが集まり、すり合い、時に反発しては馴染み、人間関係を築く練習を重ねる場所。
我が子の担任教師が言いました。
「この小学校は周辺の小学校よりも児童数が多いので、もし、どうしてもソリが合わない子がいても、クラス編成でどうにでもなる。だからこそ、自分と似たタイプ以外の子とも関わりを持つよう指導しています」と。
我が子が「なぜ学校に行かなければならないのか。勉強なら自宅でも出来るではないか」と言い出した時には、私は「あなたが、発表だとか、あなたが苦手だと思う事に挑戦する場所で、あなたとはタイプの違う子とも話す練習をする場所だから」とでも答えようかと思っています。班活動などを通せば、様々な子とも話のきっかけを掴める事でしょう。社会に出れば、否が応でも価値観の異なる人と関わらなければならない事もあります。だからこそ、それは家庭学習では体験できない、学生時代ならではの経験なのです。
コロナ禍においてリモート授業ばかりになり、「高校5年生になってしまっている大学生」が多くいると聞いた事があります。人間関係にもまれる経験は、若いうちにこそ必要なのかも知れません。
人前での発表も、日直も体育も、苦手な給食を食べる経験も、きっと我が子の成長の糧となるでしょう。だからこそ、子どもが学校に通う事は大事な経験なのです。

話を「魔入りました!入間くん」に戻すと、入間は魔界で暮らすようになってからは、沢山「子どもらしい」経験を重ねています。家族に自分の希望を言うだけで緊張してしまっていた場面もありましたが、魔界の家族からそれを受け入れて貰えた経験は、彼の心を本当の意味で強くしてくれる事でしょう。原作では既にあるのかも知れませんが、いつか彼が友人と意見が衝突した時に、自分の態度を反省して、仲直りする場面もあればと願います。
悪魔が入間を学校に行かせるのは、入間を本当に、その世界の一員として大事に育てたい証なのだと思うのです。