xharukoの日記

妊娠、出産、育児の中で思った事をつれづれ書きます

子どもに甘えない

2020年4月に施行される、改正児童虐待防止法。これに先立ち、体罰の具体例が厚生労働省によってまとめられました。

1 注意しても聞かないので頬を叩く

2 いたずらをしたので長時間正座させる

3 友達を殴ったので同じように殴る

4 他人の物を盗んだ罰で尻を叩く

5 宿題をしないので、夕ご飯を与えない

これらが体罰となり、虐待と言われるのであれば、私も加害者となる可能性は十分にあります。特に3番は、自分がお友だちに何をしたのか子どもに理解させる為に、体罰だと分かっていても私は実行してしまうかも知れません。また4番も、もし我が子が窃盗をしたなら私は叩くだろうと思います。

体罰と虐待の境目はどこだろうかと、2019年12月4日に放送されたEテレ「ねほりんぱほりん」の「もう犠牲者を出さないために…わが子を虐待した人が語る」の回を観てから、ふと考えてしまいます。
ねほりんぱほりん」は毎回、よくぞこのような人材を見つけてくるなと唸る方々がゲストとして登場しますが、先日は虐待の加害者で、更正プログラムを受けている、という方が登場するという回が放送されました。

会社員のコウタさん(仮名、40代)は、「悪い事をしたら痛い思いをして分からせる」為に子どもに暴力をふるっていたと番組内で話しました。
加害者の多くは子どもの為を思って、躾として手をあげてしまうのだと専門家の方も話していました。実際にコウタさんは長女への暴力の例として、ぬいぐるみの片付けを指示したのに長女が一向に片付ける様子がなかった時に殴る蹴るをしていたと証言しました。物を出したら片付ける、それを身に付けさせようという躾の気持ちが最初にあったのです。

「躾の為に叩いて何が悪いの?」
自分が正しいと思っているので、むしろ暴力をふるわざるを得なくなった自分の方こそが被害者ではないかと思っていたコウタさん。そのコウタさん自身も子どもの頃に母親の財布からお金を盗んだ時に「この手が悪いんだね」と、火のついた線香を手に押し付けられた事があったのだそうです。
悪い事をしたら体罰を受ける、という環境で育ったとコウタさんは話しました。私も世代的に同じなので、学校で生徒を叩く教師を見た事もあれば、自身も親から頭にゲンコツを落とされた事もあります。しかしそれは、そうされるだけの事をしたなと自分で理解してもいました。少なくとも私の周囲では、完全に理不尽な暴力は行われていなかったと思います。かつて学校で行われていた教師から生徒への今で言う暴力は生徒の為を思う「教育的指導」でした。私が親から受けたゲンコツもそうでした。だからこそ、それらの暴力は「躾」として成り立っていました。

厚生労働省がまとめた体罰の例のうち、少なくとも「2 いたずらをしたので長時間正座させる」は、いたずらの程度や正座させる時間の長さにもよりますが、本人に反省を促す為には悪くない罰則だと私は思います。むしろ、何故こんな事をしたのかと問い質している時には子どもを正座させるものではないでしょうか。

また「4 他人の物を盗んだ罰で尻を叩く」に至っては、例えば下記の事件のように同級生に現金を持ち出させ、己の享楽にふけったのが我が子であれば、私は尻どころか、まず一発、頭を殴ると思います。


小5 同級生に10~20万円支払う いじめの中で深刻 名古屋市
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20191202/amp/k10012199281000.html%3Fusqp%3Dmq331AQOKAGYAdzQgZW0wvuPsAE%253D

名古屋市内の小学校に通う5年生の男子児童が同級生6人から現金を繰り返し要求され、合わせて10万円から20万円を支払っていたことが分かりました。

全ては我が子に真っ当に育って欲しいからで、身体に痛みでもって教えれば「それだけ悪い事をしたのだ」と反省を促せられるだろうという気持ちがコウタさんにはあったのでしょう。
しかし、親の財布からお金を盗んだ罰で線香で根性焼きをされるのはまだ分かるのですが、ぬいぐるみを片付けないだけでの殴る蹴るは、やり過ぎの感が拭えません。私の基準では物を盗むのは罪ですが、片付けないのは怠惰なだけだと思うからです。おそらく「片付けろと指示した自分の発言を子どもが軽んじている」「自分の命令に子どもが従わない」という点がコウタさんには怒りとして表出し、加減が出来なかったのだろうと思います。
コウタさんはきょうだいの末っ子で、親からだけでなく、兄や姉からも一番下なのだから言うことを聞けと抑圧される環境で育ったとも話していました。ところが結婚した後は家庭内での自分の序列が一番上になったと感じ、王様気取りになったのだそうです。
コウタさんは結婚前から妻に暴力をふるっていたと話していました。そんな付き合い方で何故、女性側は結婚を承諾したのかは分かりませんが、その時から自分より下位(とコウタさんが思う)の存在には強く出ていたようです。
序列が下の者は序列が上の者に従わなくてはならない。それがコウタさんの不文律でした。なのに王様である自分の、片付けろという命令に序列最下位の者が従わない。それでコウタさんは子どもがぬいぐるみを片付けないだけで怒りが押さえられなくなってしまったのだろうと思います。
ねほりんぱほりん」に登場した専門家によると、虐待加害者の更正プログラムに参加している人は「怒った時にどう表現したら良いのか分からない」人たちなのだそうです。相手が自分の思うようにならない時に怒りを感じ、その怒りの表現方法が暴力しかない為に暴力をふるったのだそうです。

相手に注意をする、という行為はとても難しいものです。同級生に注意をしたならば、正しい事をしたにも関わらず自分が嫌われてしまうかも知れないので、それを怖れて相手の行為に目をつぶる事があります。部下に苦言を呈する時も、指導は上司の務めなのだからと理解してはいても、嫌われる事を怖れて強い口調を避ける事はあるでしょう。同級生が自分の注意を聞き入れてくれなくても自分は特に困りませんが、部下が失敗をすればその責任は上司である自分の責任になります。同じように、我が子がより良い人間になるよう教育する責任は親である自分にあるので、親は子どもが正しくない事をすれば注意します。しかし部下と我が子とでは大きく異なる点があると言えるでしょう。それは、どんな扱いをしようと、我が子は自分を嫌わない、という自信です。
まだ、たかだか6年ですが、これまで子どもを育ててきて思ったのは、親から子どもへの愛は言うほど無尽蔵ではないという事です。無償の愛と言われている母性愛も、私の場合はその実、私の遺伝子を継いでいるから私は我が子が可愛いのであって、もしも自分の方が生き延びる可能性が高い場面に陥った時には私は我が子を切り捨てられるだろうと思っています。
本当の無償の愛とは、子どもから親へ向けたものなのではないかと思うのです。どんなに酷い扱いをされても、虐待児は親を嫌いになれないと聞いた事があります。私が家事の最中などで手が離せなく、ぞんざいな対応をしても我が子がめげずに話しかけてくる様子からすると、私がご飯を食べさせなかったり、叩いたり蹴ったりしても、我が子は私をお母さんお母さんと慕うのではないかと思うのです。

もちろん子どもからすれば親は世界の全てなので、親を失えば自分を世話してくれる人がいなくなる為に機嫌をとろうとする時もあるでしょう。しかし、幼児にはそんな駆け引きはまだ理解できません。きっと、本当に、私の事を信じているのだろうなと思うのです。
比較対象が自身の中にまだ無いので、親である私の行ないは全て正しい事なのだと我が子は思っている事でしょう。だからこそ自分が何をしても子どもは許容してくれるのではないかと親は増長してしまうのではないでしょうか。
こんなに好かれているのだから、私が何をしたって子どもは許してくれる。そうした自信、子どもへの甘えが暴力に繋がるのではないかと思いました。

ねほりんぱほりん」に登場したコウタさんは、児童相談所に保護された子どもは「お父さんってどんな人?」と質問され、コウタさんの事を思い浮かべただけで失神した程の扱いをしていた人ですが、子どもは可愛いと話していました。
お風呂で子どもの足をつかんでお湯に沈めた時も、遊びのつもりだったと話しています。じゃれあって子どもの腕に歯形が残るほど噛みついても、コウタさんはスキンシップだと思っていたそうです。
「ここまで大丈夫だ、ここまで大丈夫だ」というコウタさんの発言は、ここまでやったって子どもは死なない、という意味ではなく、ここまでやったって自分は相手から嫌われない、という意味だったのかなと思いました。


虐待に関連して、このような記事を見つけました。

寝ない3歳児にイラつく母親の「今夜も玄関に蹴り飛ばしてしまった」に騒然 「自分を責めないで」と励ましの声も
https://news.careerconnection.jp/?p=83865

ヤフー知恵袋に11月下旬、「3歳 寝ない 今夜も玄関に蹴り飛ばしてしまいました。子供用の睡眠薬について」という不穏なタイトルで相談がありました。

何を蹴り飛ばしたのかは明言されていなかったようですが、もし子どもを蹴り飛ばしていたのだとしても、この投稿者はそんな扱いをされても子どもは自分を慕ったままだという自信があったのだろうと思います。
親がいなくなっては自分の衣食住や将来の学費の心配が、などと3才児はきっと思いません。蹴り飛ばされようとその親の元にいるのは、逃げるという概念が無いからでもあるかも知れませんが、きっと、親の事が大好きだからではないかと思うのです。それが分かっているから投稿者は、おかしな言い方ですが、安心して蹴り飛ばしたのだろうと思います。
そもそもは、子どもは早く寝せなければならないという焦りが投稿者にはあったのだろうなと思います。「早く寝て欲しい」という、子どもの健康を気遣う親心が「早く寝て欲しいのに何故、寝ないのか」という怒りに変じ、思うようにならない苛立ちを子どもにぶつけて蹴り飛ばすに至ったのでしょう。
どんな自分も、子どもは受け入れてくれる。そうした親から子への甘えが実子への虐待を生むのではないかと思います。

「どのくらいの事までなら自分は許されるのか」は、実は私も試した事があります。しかしそれは我が子へではなく、自身が中学生の反抗期の頃なので、自分の親を相手にです。
結局のところそれは親への甘えなのだと気付き、私の反抗期は終わりました。しかし、もしかしたら「ねほりんぱほりん」のコウタさんは、大人になる段階でそうした経験をしてこなかった為に、大人になった今、実子を相手に無意識に挑戦しているのかも知れません。
コウタさんが子どもとじゃれあっているうちに歯形がつく程に子どもの腕を噛んでしまったのは、我が家の3才の下の子と同じで、相手より勝りたいと思った時の必殺技(近頃はやらなくなりました)。お風呂で子どもの足をつかんでお湯に沈めたのは、こうすれば相手はどう出るだろうかと単純に思い立ったからの遊びの延長で、その結果がどうなるかまで思い至らなかっただけなのではないかと思うのです。自身が「大人」になっていないからこそ、幼児と同じ目線で遊んでしまっただけなのではないでしょうか。
しかし身体は成人男性なので、子どもにとっては熊がじゃれあって来たようなもの、恐怖を感じるのは当然です。自分が大人である自覚が薄いので、体罰をする時にも子ども相手だという手加減が出来なかったのではないでしょうか。

親として、我が子を正しく育てる為に子どものふるまいを注意をする。その注意を聞き入れて貰えない時に怒りを感じ、怒りのコントロールが出来ずに手や足が出てしまう。そもそも、怒りの表現方法が暴力しか無い。体罰をやめるのは自分の気持ちがスッキリした時や、自分の手が痛くなった時。
最初は躾の気持ちでも、最終的には自己満足で体罰を終えていたコウタさん。その気持ちの裏には、支配欲と共に、依存する相手への試し行動も見てとれます。
相手は子どもだと思えば殴る力も手加減が出来るのでしょうが、そもそも自分が大人になりきれていないせいで、我慢が出来ない。継子への虐待は自分の居場所を奪われないように相手を閉め出そうとする心理から起こるのだろうと思いますが、実子への虐待は「ここまでやっても自分を受け入れてくれるだろう」という、甘えの気持ちからなのだろうと思います。

体罰(暴力)と虐待の境目は、きっと、相手への依存度で変わるのかも知れません。暴力をふるう側が大人であれば、それは躾の気持ちの方が大きく、そうでなければ、ただの憂さ晴らしでしかないような気がします。
厚生労働省がまとめた体罰の具体例は、私から見れば躾の範疇です。それでもこれらを厚生労働省が虐待例として挙げたのは、虐待をする人はそれらを度を越して実行するからなのだろうと思います。
「1 注意しても聞かないので頬を叩く」も、パチンと一回、加減をしながら叩くのではなく、顔の形が変わるほどに何度も何度も叩くのかも知れません。「5 宿題をしないので、夕ご飯を与えない」は、一回きりではなく、その後しばらく続ける、という人もいるのかも知れません。微妙なさじ加減を明文化する事は困難な為、虐待者をより早く被虐待者から引き離す為に挙げた例なのだろうと思います。

体罰は無いに越した事はありません。しかし、言葉で解決出来るならば警察は不要ですし、戦争だってとっくに無くなっている筈です。どこかで罰は必要であり、それが効果的なタイミングで発動するにも即座に行える体罰は必要悪なのだと思います。
だからこそ、実施者は私情を挟まず大人にならなければならない。子どもより何段も上の目線から、冷静に力をふるわなければならない。罪には適切な罰を。そして、相手が理解できるよう罰を与えた理由を諭さなければならない。
そこに「どこまでなら大丈夫か」などという甘えは許されない。何故なら自分は既に大人で、相手はこれから経験を積んで大人になっていく、子どもなのだから。
「しつけ」は「躾」であって、自分の気持ちの「おしつけ」になってはならない。子どもはまだ小さく、それを受け止めるだけの容量は無い。力が逆転する時までは、親は自分は熊なのだと自覚しなければならない。体罰はしないに越した事はない。しかし、もし力をふるうならば、それらを肝に命じながら行わなければならないなと思います。